十七 狩りの始まり、捕獲の始まり
朝四時。
目を覚ました愛桜は、ゆっくり起き上がって右手の開閉を繰り返す。手のひらに負った傷はほとんど治っていて、問題なさそうだ。千切れかけた左腕は、一晩では治らなかったが昨日よりはマシだ。動かそうと思えば動く程度には治っている。
傷を確認していると、隣で寝ていた灰鳴がムクリと起き上がって眠そうに目を擦る。
「おはようー。調子は?」
いつも出発時刻ギリギリに起きる灰鳴が、もう起きるとは珍しい。
「おはよう。珍しいな。出発は五時なのに」
「いやー。お腹空いてなー」
「昨日、慌ただしくて碌に食べれなかったもんな」
昨日はウェンディゴが去ってから、旅館の方で事態の収拾を図ってくれた。そのおかげで愛桜たちはゆっくり休めたのだが、本来ならそれはハンターや狩猟団体員の役目だ。だから、自分たちだけ呑気に外で夕食を買って食べる気にもなれず、持参している携帯食料で腹を満たそうとした。しかしどうも落ち着かなくて、少し食べたら睡眠を優先して寝たのだった。
「みんな、朝ごはんだよ。おにぎりばっかりだけど文句は言わないでね」
唐突に声が聞こえたと思うと、襖が開いて風呂敷を抱えた灯がやって来た。風呂敷の中身は、大量のおにぎりだ。
その声に、バッと飛び起きる炎と梗香。
「「ごはん……!」」
二人して目を輝かせている。
「みんな、お腹空いてたんだな」
そう言う愛桜も、かなり空腹だった。傷の回復でエネルギーが持っていかれるため、いつも以上に栄養摂取と睡眠が必要になる。
愛桜たちは、目の前に広げられた大量のおにぎりをあっという間に平らげた。
******
空腹を満たした愛桜たちは、最低限の装備と武器を持って外に出た。
愛桜を囮にするのだが、部屋に籠っていてもウェンディゴは来ないという判断だ。隙だらけの夜中に来る機会はいくらでもあったのに、何もなかったことがその理由だ。
ウェンディゴは狡猾で、心を弄ぶ。憑依するなら人のいるところを選び、愛桜を使って周囲の人間に害を与える気だ。もし憑依できなくても、ウェンディゴが姿を見せればハンターは武器を取る。派手に暴れて、為す術もないハンターを周囲に見せつけることで、人心を乱すこともできる。そうしてウェンディゴが望むことは、ハンターを使った混乱だろう。
待っていても何も始まらない。そんなわけで、愛桜たちは宿の外に出たのだが……。
外に出た瞬間、人の動きの活発さに圧倒された。
「どうして、人がこんなに? 時計壊れてないよな?」
灰鳴が目を白黒させた。
まだ空は暗い時間帯だというのに、昼間の繁華街のような賑わいだ。朝からこんなに人が出ていると思わなかった。
愛桜は、込み上げる不快感を飲み込んで言う。
「まだこんなに暗いんだ。人がいる方が変だ」
硬直する五人。
近くを通った青年が、それを見て声を掛けてきた。
「おや? 噂のハンターですね? 驚きました? そりゃそうですよね。町の中でもこの辺りにいるのは元々、隣の村で育った者が多くてね。そこじゃあ『早起きは三文の徳』ってのが沁みついてましてね。誰が一番早起きか競う大会があるくらい、みんな早起きなんすよ。ですがここは港町。漁師はみんな仕事に行っているので、優勝は間違いなく彼らになりますけどね」
説明してくれたのはありがたいが、目の前の光景は受け入れ難い。
炎は目を細めた。
「それにしても、いくらなんでも……」
元気すぎる。
何で外に出るまで気づかなかったのかと思うくらいガヤガヤと活気のある声が響き渡っている。
「毎日、こうなんですか?」
梗香は、苦笑いを浮かべながら聞いた。
「そうですよー。毎日朝からどんちゃん騒ぎ。夜中は静かですけどね。みんな早朝すぎて変なテンションになってるんすよ。早朝テンションってやつです」
「えー」
それを聞いた炎は明らかに引いている。深夜になると異様に精神が高揚する深夜テンションはよく聞くが、早朝に高揚するのは聞いたことがない。
「それに、最近じゃウェンディゴ騒ぎで夜出歩けませんから。その分、朝にはしゃがないと。それじゃ、僕も仕事があるんで」
青年は言うだけ言って駆けて行った。
都会とは程遠い生活をしている愛桜たちは、祭りや何かのイベントに行く機会もなく、人混みに慣れていない。
「うっ。酔いそう」
「深呼吸だよ、炎」
目を回しながら口を押さえた炎の背中を、灯がそっと擦る。
「ふぅーはぁー……。よし、行くぜ!」
炎は大きく深呼吸した後、声を張り上げた。周りの空気に流されて、気分が上がったようだ。早朝テンションとまではいかないが、いつもの炎になっていて、人混みで気持ち悪くなるよりずっといい。
そんな様子の炎を見て、梗香、灰鳴、灯が息を吐いた。
「流されやすいって、ちょっと羨ましいわ。どこでも適応できるっていいわね」
「珍しく炎を羨ましいと思ったー」
「……」
「灯の羨望の眼差しが辛いぜ……! みんなポジティブに行こうぜ! こういうのは思い込みだ! お祭りだ!」
炎は調子に乗って、空に向かって人差し指を立てる。
元気づけるつもりだったが、三人の反応は思いのほか冷たい。
「うん、お祭りではないけど、もう行こう」
「え?」
「早く人のいないところに行こうー」
「えー」
「真面目に考えると、こんなに人がいたら危ないかも」
「……」
最後に言った灯の言葉に、炎はふざけている場合ではないとハッとした。ウェンディゴがいつ来るかも分からない中、気を緩ませることなどあってはならない、と。
「行こう」
炎は警戒心を取り戻し、冷静になって歩き出す。流されやすい分、切り替えも早い。
灰鳴、梗香、灯も後を追って歩き出す。
しかし、歩き出してすぐ、灯は歩みを止めた。
「愛桜くん?」
愛桜を呼んだ灯の声が、雑音を搔き消して聞こえる。
透き通った声だ。灯の声は、人が密集していてもよく通る。誰かを心配している時の、少し震えた声。
それを聞いて、灰鳴、炎、梗香も愛桜を見た。
愛桜の手から一滴、血が落ちる。
手の傷が開いて、包帯を真っ赤に染めている。愛桜は、それほど強く拳を握っていた。
「これは……きついかも」
微かに発せられた、愛桜の声。それは、人混みの中、数々の声にかき消され、誰にも届かない。
(まずい……これは……意志の問題じゃ、ない……)
そして――。
愛桜は短刀を抜き、町の人に襲いかかっていた。
******
早朝から人が出歩いているのは、この町に一年以上いて知っていた。こんな人が多い時間にハンターが出てくると期待していなかったが、運がいい。
ウェンディゴは、ニッと口の端をつり上げる。
準備に抜かりはない。仕掛けが効いて、ハンターたちは気が緩んでいる。
仕掛け――それは、昨日、ハンターの頭にかけておいた靄のことだ。
ウェンディゴは、心を荒立てたり、感情を増幅させたり、記憶を見たり、憑依したりする以外にも様々な能力を持っている。靄をかけるのもその一つで、思考力を鈍らせ、警戒心を解く効果がある。
あれが昨日の、闇が深そうな少年。
ゆらゆらと近づいても、ハンターたちはその存在に気づかない。
(同化できないか試してみよう。進化を続けて来た俺ならできるかもしれない)
同化すると己の能力を人に使わせることができるのだが、それまでの道のりは長い。何日、何か月も囁き、心を乱し、ようやく同化できるようになる。
その過程を飛ばして同化できた試しはないが、今ならできる気がした。
背後から少年に入り込む。
『お……? おぉ?』
驚くことに、同化どころではなかった。
ウェンディゴの意志で体を操れる感覚がした。このような感覚は初めてだ。
全てを思いのままに動かせるような快感がある。
それにしても、操る能力なんて、いくら進化したとしても急すぎる。となると、そこには理由があるはずだ。相手の精神が相当弱っている状態か、もしくは、人間ではないか。
(精神が弱っている? 確かに、ひどい経験をしてきたようだ。心に付け入る隙はいくらでもあった。……が、記憶の奔流を受けても己を見失わなかった奴が、これほど脆いはずがない)
考える通りなら、笑えるような可能性が残る。
まさか、そのようなことあるはずがないと思いながらウェンディゴは少年の記憶を見る。
じっくり、隅々まで。そして分かった。
――十分、あり得る。
『……ひょっとしてお前、ディールの遺伝子があるな?』
囁いて、少年が僅かに肩を震わせたことが答えだ。
『そうかそうか。俺はとことん、ついてるらしい』
少年は体を奪われまいと抵抗している。しかし、それは無意味だ。既に体はウェンディゴの思い通りになる。あとは心を壊して、楽しむだけだ。
『お前が人間じゃない、化け物だってことは、仲間は知っているのか? まさか騙し続けているのか? だとしたら救いようがないな。最低だ。知ったら誰も、お前みたいな奴に命は預けないだろうになぁ』
なんて容易い。順調すぎて面白くないが、こいつで遊ぶだけ遊んで、あとは他の奴に憑依し直せばいい。
ウェンディゴは笑う。
『さぁ、狩りの始まりだ』
手始めに、人を殺して心を完全に壊してしまおう。
******
「キャー!」
響き渡る悲鳴。
「……くっ」
炎は歯を食いしばる。
愛桜が持った短刀の刃先から、血が数滴流れ落ちた。
(やばい、これは痛い)
炎は、人に襲いかかろうとした愛桜の前に身体を割り込ませて止めようとしたのだ。しかし、ウェンディゴに操られた愛桜が止まるわけでもなく、防御もできないまま斬られた。
斬られた所の痛みは僅かで、今は熱い感覚が強い。時間が経てば熱は痛みに変わり、それが想像するだけで痛そうだった。
しかし身を挺した甲斐があり、最悪の事態は防げた。
「炎!」
灰鳴の呼び掛けに、自分は大丈夫だと答える代わりに、愚痴を溢す。
「いくら何でも、展開が早すぎるだろ……! 外に出て五分だぞ?!」
言った途端、ゴッ、と鈍い音がして、愛桜が倒れた。
「なになに? 俺の愚痴で傷ついたのか?!」
「そんなわけないだろ」
倒れた愛桜の後ろから、灰鳴が顔を出す。愛桜が動かないうちに背後に回り、頭を思い切り殴ったのだ。殴った方も痛かったらしく、灰鳴は殴るのに使った手をぶらぶらと振っていた。
愛桜はとりあえずそのままにしておく。常人なら死んでもおかしくない強さで殴ったから、しばらく起きないだろう。
灰鳴は、腹から血を流しふらつく炎を支え、その場に寝かせる。
「炎、少し痛むぞ」
止血するために傷口を抑えると、元気な声が返って来た。
「っ! マジで痛いわ。少しどころじゃ、ないんだけど!」
「はいはい、そんなに叫べるなら大丈夫だな」
「なんだ、思ったより大丈夫そうね」
「炎……頑張って……!」
灰鳴、梗香、灯の安堵し切った声には、つい先ほどまであった緊迫感はまるでない。
果たしてこれでいいのだろうか。命に別状はないだろうが、結構な深手を負ったのに。
「え、俺そんなに心配されてない?」
しゅんとしてしまった炎は置いておき、梗香と灯は周囲の対応をする。
「皆さん、大丈夫です。これは狩猟団体が計画したハンターの訓練です。皆さんが危険になることは決してないのでご安心ください!」
悲鳴を上げて逃げた人が大半だが、遠くない距離から様子を窺っている人もいる。梗香は大きな声で同じ内容を繰り返すと、声が聞こえた人から遠くにいる人に伝わり、逃げた人にも大丈夫だという事が伝わっていった。そして、活発な町に戻ろうとしている。
「訓練って言葉、便利だよな」
炎は、呑気にそんなことを言った。
「さてと、炎はこれで大丈夫。行こう」
灰鳴が応急処置を済ませると、梗香は炎に肩を貸して立ち上がらせる。
「全く、無茶な作戦だよな」
痛みに顔を顰めて言った炎。その言葉を受けて、梗香が意外そうに呟く。
「作戦、ちゃんと理解してたのね」
「失礼な! ちゃんとしてるってば!」
そんなやり取りを横で聞きながら、灰鳴は気絶した愛桜を背負う。
「作戦が上手くいったとはいかないけど、炎の怪我だけで済んでよかった」
「そうそう俺が苦しむだけでよかったよ。マジで痛いけど」
梗香の肩を借りてゆっくり歩き出す炎だが、あまり心配されなかったからか、ご機嫌斜めだ。痛いアピールは、しばらく続きそうだ。
*****
――愛桜はウェンディゴの卑劣さと欲深さを知っていた。
宿を出る前の作戦会議のことだ。
「次の狙いが分かってるのはいいけど、どうやって捕まえるの?」
誰もあの速さを補足できない。愛桜を囮に誘き寄せても、捕まえられなければ意味がない。
梗香の問いかけに、愛桜は考える素振りも見せずに答える。
「憑依させる」
「うん、なんとなく予想はしていたわ」
「自分を囮にする時点で、危なっかしい策しかないんだろうなとは思ってたー」
この策に驚きもしない梗香と灰鳴。
考えることは苦手で、言われたことに全力で応える炎は、詳しい内容が話されるのを待っている。
灯は何も言わないから、何を思っているのか読めないが、きっと愛桜への心配がずっとあるのだと思う。
各々思うことはあるのだろうが、この策に反対する人はいない。
愛桜は話を続ける。
「憑依させるって言っても、危険なのは俺じゃない。みんなの方だ。あいつは人を弄ぶのが好きなんだ。だから、人を守る存在であるはずの俺たちが、人に害を及ぼしたらどうなるか、見たくてしょうがないはずだ。もし、俺がウェンディゴの『声』に負けたら、周りにいる人片っ端から殺していくと思う」
負けることはないだろうが、もしもの時はみんなに任せるしかない。
「だから、それは絶対に防いでくれ」
愛桜が念を押すと、灰鳴がムスッとした顔をした。
「愛桜を防ぐ俺たちが危険なのかー。流石に四対一じゃ愛桜も勝てないと思うけど」
「どうだろうな。そうだといいけど」
「うわー。なんかムカつくー」
愛桜が強いのは認めるが、劣っているとは認めたくない灰鳴は、らしくもなくムキになっている。
「ここで張り合いしないでよ……」
「そんなことより、憑依させた後はどうするの?」
梗香に呆れられ、灯に話を進めるよう促された。
愛桜は、息を吐いて一旦落ち着く。
「ウェンディゴは、憑依対象が眠ると自由に動けなくなるんだ。つまり、体に出入りできなくなる」
ここまで聞いて、灰鳴はすぐに作戦の思惑に気づく。
「なるほど……。憑依対象が眠ってしまえば、その体から抜け出せなくなるのか」
対して、炎はさらに深く首を傾げている。
「えーっと?」
灯は愛桜の言ったことを理解し、梗香もなるほど、と頷く。
「ウェンディゴを、憑依した人に閉じ込める……」
「そのまま本部まで帰れば、一応は捕獲完了ね」
んー、と唸る炎。いまいち理解していないようだ。
分かりやすいように、愛桜は順を追って説明する。
「俺にウェンディゴが憑依したら、意識を奪ってくれ。意識を失った状態だとウェンディゴは外に出れない。それで、憑依させた状態のまま本部に行く。本部の研究所で、ウェンディゴの憑依を解除させれば捕獲ってことになる。捕獲の依頼なんだから、ウェンディゴを閉じ込めておく部屋くらい用意してあるだろう」
炎はうん、と首を縦に振り、自信気に言う。
「ほほう! 憑依されたら思い切り殴ればいいんだな!」
そこだけはしっかり理解したようだが、とりあえずはそれさえできればいい。
「憑依されたら言うけど、相手はディール。何が起こるか分からない。俺が言わなくても誰か気づいたらすぐに意識を奪ってくれ」
そうして愛桜たちは、外に出た。
忘れがちだが、ウェンディゴが憑依できるのは、ウェンディゴに恐怖を抱いた者だけ。
愛桜は恐怖を抱いていなかったから、どうやって恐怖心を作ろうかだけずっと悩んでいた。
もしかしたら、憑依されないのではないかという作戦の破綻を危惧して――。
進化したウェンディゴにその悩みは無駄となったが、体を支配され、意志も何も関係なくなるというのは予想外だった。
憑依されているとすぐに気付いた灯も、素早い状況判断で冷静に対処した仲間も、ハンターとしては一流だ。
死なない程度の威力で殴られた愛桜は、感心と同時に、初めて味わう感覚に少し心配になる。
常人であれば死んでいたほどの威力だ。一撃で意識を奪えたのだから威力としては正しいのだが、これまで頭に受けた打撃の中で、今の一撃が最も強かった。
もし意識が戻らなければ、ウェンディゴも憑依したまま外に出られない。そうなれば研究もできず、捕獲した意味がなくなる。
それは避けねばと強く思う愛桜の意識は、ウェンディゴと共にあっという間に暗闇に包まれていった。




