十五 父親
声が聞こえていた。
いつからだろう。一番初めに話しかけられたのはひと月以上前の事だ。
聞いたことのない声だった。
それが最近、鮮明によく聞こえる。初めは、話しかけられると不快感があったが、今はない。それどころか、自分の心の奥底に隠した本心が主張する声のように思える。
『殺さないと! 殺せ、殺せ! 殺せ!! 娘を守るためだ。殺すんだ!!』
その殺意の声が聞こえたのは、ハンターが来ると耳に入った時からだ。
明かりを点けることをしなくなった真っ暗な夜、宿の外で揺らめく光を見た時、『声』は荒れ始めた。
――ついに、ハンターがやって来た。
何の根拠もない声に侵され続け、心が乱され、殺意が湧いてくる。親の仇のように憎く思えて、娘まで奪われる気がして、殺さなければならないと強く思う。
殺さないと。厄災から娘を守らないと。殺すんだ。みんなの仇だ。あいつらはたくさん傷つけた。命を奪う殺し屋だ。殺さないといけない。そうだ、殺して詫びさせるんだ。みんなの前で懺悔すればいい。泣き喚いて命を乞えばいい。早くその顔が見たい。
……早く殺してみたいなぁ。俺はハンターを殺して、みんなを守った英雄になるんだ。
いくら善人を繕っても本心には敵わない。
『殺さないと』から『殺したい』に変わり、それはもう、己の欲望でしかないはずなのに娘や他の人を守るためだと正当化した。
心はそれを良しとする。世間も危険人物を殺すことは良しとしてくれるだろう。娘も、自分を守るために殺してくれてありがとう、と言ってくれるはずだ。
『殺そう! みんなのためにも、殺すんだ! 俺は正しいんだ! 俺は英雄だ!』
「俺は人間だ」
別の声がした。
そうだ。ハンターも人だ。悪魔じゃない。まだ十数年しか生きていない子供たちが、危険な環境に身を置くのには理由があるはずだ。噂やニュース、新聞で見聞きする情報でそれを知ることはできない。自分は、何も知らない。
子供と言うには幼すぎず、大人と言うには未熟な、そんな曖昧な年代。彼らを正しい道に導くのは大人の役目だ。だったら、いずれ彼らが厄災とならないように導かないと。
『いや、殺さないと! 惑わされるな! あいつらは俺を騙そうとしているんだ!』
本当だろうか。本当にそうなのだろうか。
例えそうでも、本当に娘が喜ぶのだろうか。
人殺しになるなら、今まで正しくあろうと生きてきた意味はどうなるのだろう。
『娘を殺されてからでは遅いんだ! 芽は摘んでおくべきだ!』
人はずる賢い。
バレないからと罪を犯す人も、周りのみんなもやっているから大丈夫だと言って不正をする人も、これくらいなら大丈夫だと甘く考えて罪を犯す人も、たくさん見て来た。
己の利のためなら、少しくらいルールを破ってしまう人はたくさんいた。
自分はいつだって損をしている気分だった。でも、些細な罪も犯せなかった。バレないとしても不正をする自分は許せなかった。誰かが見過ごしても自分自身が見過ごせないから真面目に生きてきた。
大切な人に出会ったとき、結婚したとき、娘が生まれたとき、誰よりもかっこよくいたいと、そう思った。これまで真面目に生きてきたから胸を張れる。真面目な生き方しかできず、それを損だと思う気持ちは消えた。ずるいことをしなかった、たったそれだけのことが功績にすら思えた。
ずるは嫌いだった。
公平ではなくなるから。誰かが損をさせられるから。何よりも嫌いだった。不誠実が嫌いだった。
「そんな弱くて卑怯な人間を守るためにここにいる」
この少年は、守ると言ってくれた。人間の弱い部分も、卑怯な部分も全て知った上で。
自分にはできなかったことだ。不正を働いた者、罪を犯した者、些細なルール違反でさえ、天罰が下れと思って呪うばかりで、そんな奴らを守る気になれなかった。
『俺は正しい! ハンターはいずれ人の害となる! 生き物を殺すことに慣れているこいつらなら、人を傷つけることも厭わない! 見ろ! こちらに刃を向けている!』
――そうじゃないだろ。
聞こえる声に異を唱え、自分の心と葛藤するように強く思う。
人を傷つけてはいけない。今、自分を正当化して人を傷つけてしまえば、散々見てきたずるい人間と同じだ。殺せばみんなが救われるという思い込みの正当性を盾にして、英雄になれるという欲のために誰かを傷つける。それは、己の欲に蓋をして見栄えのいい正義を掲げただけの卑怯者だ。
いくら憎い気持ちがあっても、蛮行をこの目で見たわけではない。誰かを傷つけるところを見たわけではない。勝手にそう思い込んでいるだけで、今、目の前にいる少年は、苦しんでいる。
『見ろ! あれほどの傷でも平然としている! やはり悪魔だ! 痛みを知らない悪魔だ!』
この声は誰のものだろう。うるさい。
腕が千切れかけて、痛くないはずがない。
よく見ろ。歯を食いしばって、耐えている。額には汗がにじみ、呼吸も途切れ途切れだ。
『この惨状! みんな苦しんでいる! あいつの所為だ! あいつが人を操って殴り合いをさせている! このままでは死者が出そうだ! 止めないと! あいつを殺せばみんな助かる!』
いい加減、目を覚ませ!
欲に負け、憎悪に負け、声に従った。自分の心の声に従ったつもりだった。それが正しいと思っていた。
その結果が、これだ。関係のない人が狂って殴り合う惨状。
これは、自分の選択の結果だ。彼らは悪くない。
まだ自分の都合のいいように思い込むなら、傷つけた人から目を逸らすなら、自分の欲に身を任せ、楽と保身しか考えない卑怯な人間に成り下がる。
そんな、嫌いだったものに成り下がりたくはない。
『違う! 正しいことをしようとしているだけで間違ってない!』
言い訳は、大嫌いだ。それは、傷つけた人より自分を優先させる保身でしかない。
人を殺すことを、正当化していいはずがない。
こんな『声』知らない。お前は誰だ。
殺してはいけない。強く思っても、体はまだ『声』に従う。心の奥底で居座る憎しみがそうさせる。
少年は、誰かを守ろうとしている。
そして、誰かを守るためなら、誰かを殺すのだろう。
自分が『声』に支配されたままなら、自分は少年に殺されるのだろう。
この少年に、自分を殺させるわけにはいかない。
『そう! こいつは人殺しだ! どんな理由があれ殺しはダメだと、俺自身が思っているのに庇うのか!? 例外はないよな! 人は皆、等しく裁かれなければならない!』
その通りだ。例外なく人殺しは罪だ。だからこそ、人殺しの罪を背負わせたくない。
『ダメだろう! 悪いことはさせるわけにはいかないだろう! 殺せば英雄になれる!』
お前は誰だ。
お前の見せる都合のいい夢なんて、いらない!
「……ダメだ。殺させるわけには!」
やっと、声が出た。
傷つけたくないと思っている。しかし、まだ憎くて、殺したい衝動も残っている。それを抑えるために包丁を自分へ向けた。
どうして、こうも感情が制御できないのか。苛立ちが沸き上がる。
そうだ、誰かを殺すくらいなら、誰かに殺されるくらいなら、自分で死のう。
「正しくありたい。かっこよくありたい。愛する人の目を、真っ直ぐ見れるように!!」
叫びでもしないと、『声』に自分の全てを持っていかれそうだった。
そして、意志が強いうちに、包丁を自分の首に突き刺す。
「……くっ」
――それを、少年は許さなかった。
「よく、戦いましたね。あなたは勇敢だ。誰よりも立派だ。戻ってきてくれて、ありがとうございます」
包丁を掴んで自殺を止める手が、痛々しく血を流していた。
少年は、掴んだ包丁を離さない。
「死んだらダメだ。あなたがいないと、花織ちゃんは寂しく悲しい思いをする。あなたが生きてさえいればあの子はきっと、いい子に育ちます」
『本当に、そうだといいなぁ。お前は多くを傷つけた。そんな父親で子供は嬉しいと思うか?』
その声が聞こえた時、羽虫のように喚いていた心のざわめきはなくなり、憎しみや怒りの感情も消えた。
少年に抱いていた恨みも嘘のように無くなった。
「負け惜しみするなよ。みっともない」
そう言ったのは、少年だった。
『強がりもほどほどにな。ヒヒッ』
その言葉を最後に、いくら反発しても止まなかった声は完全に聞こえなくなった。
心も体も軽くなり、靄がかかったように見えていた世界は、鮮明さを取り戻す。
あまりの鮮明さに目がチカチカして、花織の父親はその場に座り込んでしまった。
******
愛桜は、記憶の奔流で脳が揺さぶられ、意識を保つことさえやっとだった。動くことも諦めていた。しかし、父親が自殺しようとした時、体は動いた。
(なんだ、動けるじゃないか)
ウェンディゴが父親の体から離れて、声が聞こえるようになり、愛桜は目を凝らす。父親から離れた一瞬、ウェンディゴの姿を捉えた。
「負け惜しみするなよ。みっともない」
包丁の刃を掴んだまま、それをウェンディゴに振るう。しかし、斬ったのは残像だ。
『強がりもほどほどにな。ヒヒッ』
ウェンディゴは既にいない。不気味に笑う声だけが置き土産となった。せめて後を追えればよかったのだが、目で追えないほどの速さでどこかへ行ってしまいそれはできなかった。
「ふぅ……」
ひとまずウェンディゴの脅威が去り、愛桜は肩の力を抜いた。野次馬やスタッフの様子を見ると、ウェンディゴが逃亡したことで殴り合いも収まっていることが確認できた。
野次馬たちには、まだ困惑が残っているが梗香と灰鳴がなだめている。
灯が混乱した人混みの中からこちらに駆け寄ってきて、千切れかけた腕を押さえる。
痛みに顔を顰めた愛桜は、内心、この結末にかなり驚いていた。まさか、ウェンディゴに抗い、自分に刃を向けるとは思いもしなかった。これまでウェンディゴに打ち勝った例は聞いたことがない。
愛桜は血の滴る手を見る。
(勢いつけすぎた……)
出血の量が多い。
咄嗟の事で、とにかく必死でなりふり構っていられなかった。かなり深く切ってしまったが、この人に傷がつかなくてよかったとホッとする。血に濡れるのは、ひたすら命を奪い続けてきた自分たちの方がお似合いだ。
「俺たちもきっと、あなたみたいな父親がいたら、親が生きていたら、他の生き方ができたのかもしれません」
過去の記憶を見せられたからか、そんなことが口から溢れた。
もしも、親がいれば、生きていれば。
「こんな『殺し屋』にならなかったのかもしれない。命の重さを感じることができたのかもしれない」
もしも、生き様をその背で見せてくれる親がいたのなら。もしも、その背を追えたのなら。
しかし、失ったものは戻らない。
奪われた故郷も、家族も、友人も、何も戻らない。もういない。もう会えない。
記憶の奔流は止まった。
それにも拘らず、愛桜の心にはとてつもない虚無感がある。
いや、記憶の中で忘れていた顔に会えたから、心が空になったように感じるのかもしれない。
家族を失ったあの時、どう足掻いても何もできなかった。そして思い知った。
――人は、持っている力以上の事はできない。
だから愛桜は、誰かを守るために力を付けて来た。
強くなって、救えるように。
誰も、自分のような思いをしないために。
もう誰も、悲しまないように。
******
「本当にすまなかった……。助けてくれて、ありがとう」
事が済んでも、父親はひたすら謝り続けていた。
部屋に戻った愛桜たちの前で土下座する父親に、愛桜は戸惑いながら応える。
「いえ。俺たちはそのためにいますから」
「君たちが憎くかった。とても。だから、包丁を向けてしまった。料理をする時は、誰かに笑って欲しくて握っていたんだ。それを傷つけるために握ってしまった。俺にはもう、包丁を握る資格はない」
「ウェンディゴは、人の憎しみを助長させて、憎しみの対象を挿げ替えられるんです。だから、あなたが抱いた憎しみは、本当のものではありません。それに、俺たちは憎まれても当然です。殺し屋ですから」
父親は、ようやく頭を上げて愛桜の目を真っ直ぐ見る。
「君の声、聞こえていたよ。君たちならこの先も大丈夫」
愛桜には、その言葉の意味がよく分からなかった。
「大丈夫、ですか?」
聞き返すと、父親は拳を前に出し、親指だけ立ててニカッと笑う。
「あぁ、大丈夫。とてもかっこよかったからな」
愛桜たちはキョトンとする。
父親は、伝わらない想いを伝えようと、真面目な顔に戻って愛桜たちを見る。
「そう思ったんだ。心の底から。誰かにこんな感情を抱いたのは初めてだ」
「……」
「あぁ、ごめん。困らせてしまったね。でも、誰かのために戦う君たちは誰よりもかっこよかった。誰がなんと言おうと、君たちは誰かを救っていることを忘れないでくれ」
頭を下げられて、愛桜はますます困惑した。
(……これはお願いなのだろうか?)
「……分かりました」
とりあえずそう言ったところで、襖が開く。
「愛桜!」
「あ、灰鳴」
「お前! 連絡はもっと早く寄こせよ! ってそれ大丈夫なのか?!」
息を切らした灰鳴が、愛桜の姿を見て慌ただしく中に入って来た。
愛桜の千切れかけた腕と切れた手は、とりあえず包帯をぐるぐる巻きにして固定してある。
包帯に血が滲み、垂れてきそうになっていた。
「あ、このままだと部屋が汚れそうだ」
愛桜は、早く包帯を変えないと、と思って呑気に声を上げた。
その時、
「くっ!」
奥歯を噛み締めた灰鳴は、父親に殴り掛かった。
「待って灰鳴!」
「灯!」
拳を止めた灯を、灰鳴は睨みつける。
灯の目は、臆することなく灰鳴の目を真っ直ぐに貫く。
「この人は、勝ったんだよ! 人は弱いの、分かるでしょ! 誰だって弱さを抱えてる! そこにつけ込まれたのはこの人の所為じゃない!」
「っ……分かってるよ」
灯に諭されて拳を下ろした灰鳴は、気に食わない顔をしながら父親に頭を下げる。
「すみません。頭に血が上って」
「いや、殴られて当然だ」
父親は、殴り掛かられて驚きはしたが、責める気にはなれない。仲間が傷つけられたなら当然の行動だ。
だから、浮かんできたのは別の感情だった。
「……君たちはなんというか……ものすごいお人好しだな」
「「「……?」」」
みんなして、訳の分からないと言った顔で、父親を見た。
「分からなくていい。君たちは優しい。だから俺は生きている。本当に、ありがとう」
深々と頭を下げた父親に、愛桜は言う。
「そろそろ、花織ちゃんに会いに行ってください。きっと心配しながら待ちくたびれています」
「あぁ。そうするよ……花織と会えるのも、君たちのおかげだよ」
父親は涙ぐみながら微笑み、愛桜の言葉に甘えて部屋から出て行った。
入れ違いで宿の女将が入ってきた。
「この度は、旅館の料理人を助けてくれてありがとうございました」
と、深々と頭を下げられた後、被害と今の状況を説明してもらった。
「本当に、手当てしなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫です。このくらい日常茶飯事ですし、慣れていますから」
一通り説明を終え、愛桜の傷を心配する女将に、愛桜は愛想笑いを浮かべて答えた。
女将が部屋を出ていき、ようやくハンター五人だけの空間になると、灰鳴が慣れた手つきで手当てを始める。
「……うーん、もうくっつきかけてる。これなら縫わなくていいかー」
「父親、殺し屋、ねぇ」
梗香は言葉を並べ、自嘲する。自分たちは失っている親の存在。そして、自分たちがどう見られているのか。
「ふふっ。あはははははっ!」
炎は突然笑い出し、灰鳴が投げやりに言う。
「今更考えてもなー。親なんて顔も覚えてないし、命を奪うのに躊躇いもない俺らは確かに殺し屋だ。そんなこと、散々言われてきた」
「……でも、みんな思うところはあるんでしょ? 親がいたらなんて、ないものねだりだから考えもしなかったけど……」
「灯はいつも、真面目ね」
「俺たちがハンターなのは変わらないだろ。それでいいんだ」
梗香と炎は吹っ切れたフリをする。
みんなそうだ。いつも平気なフリをしている。考えることを放棄している。考えれば今のままではいられなくなることが怖くて目を逸らしたいのだ。
「悪い。俺が変な事口走ったから……」
愛桜は、近くにいた灯以外に聞こえていると思わず、父親に放った発言を悔いた。殺しに迷いは命取りになる。みんなの心を乱したくなかったのだが、ウェンディゴと接触した影響で、愛桜自身心が不安定になっていた。
その影響が他の仲間にもあるのかは分からないが、
「いいって、いいって」
「らしくないとは思ったけどね」
と、炎と梗香は軽い口調で受け流してくれた。
「それよりも! これからどうするのよ?」
梗香が言うと、
「愛桜が策を考えていないとでも?」
「そうだよー。ウェンディゴを逃すだけの間抜けじゃないよー」
「なんかプレッシャーだけど、まぁ、策はある」
炎、灰鳴、愛桜は流れるように言葉を紡いだ。
そして、愛桜は策を発表する。
「とりあえず、待つ」
「待つって、何を?」
「ウェンディゴは、俺の記憶を見た。奴から見れば心に付け入る隙になるはず。それに、俺たちみたいな境遇、ウェンディゴが面白がらないはずがない。俺を狙いに絶対来るはずだ」
「次のターゲットは愛桜ってことね。ウェンディゴを、愛桜を囮にしておびき寄せるのね」
納得した梗香が、なるほど、と手を叩いた。
「でも、愛桜くんは大丈夫なの?」
灯は、心配そうな顔をしていて、囮作戦は乗り気ではないようだ。しかし、これが最も長くウェンディゴの姿を捉えられる作戦だ。だから、やるしかない。
「そこはなんとかするよ」
愛桜は、本当に無理な策は立てない。だからこれは可能な策ということになる。怪我も、一晩寝ればかなり回復するはずだ。
愛桜は、手のひらの傷を見て、グッと拳を握る。
「散々やられたんだ。ここからは、反撃だ」
――やられたまま、逃げられてたまるか。




