第9話 新たなる対局者
佐伯中佐が嵐のように去った後、部屋には再び静寂が戻った。だが、それは鉛を溶かし込んだような、重く息苦しい静寂だった。遠くで鳴り響くサイレンの音と、廊下を走り回る兵士たちの怒声が、その静寂の薄皮を絶え間なく震わせている。盤上の駒が動き出したことを告げる、祝祭の不協和音だ。
私は革張りの椅子に深く腰掛け、目を閉じる。思考の海に意識を沈め、この混乱の中心から遠く離れた場所で繰り広げられているであろう、もう一つの舞台に想いを馳せた。
今頃、宮田は夜の闇に紛れ、施設の裏手、警備が最も手薄になる排水路から侵入しているはずだ。彼が率いるのは、金で雇った傭兵などではない。私が長年にわたって育成し、信頼関係を築き上げてきた、元軍人や特殊技能を持つ者たちで構成された少数精鋭のチームだ。彼らは私の意図を寸分の狂いもなく理解し、機械のような精密さで任務を遂行する。
彼らの目的は一つ。この施設の奥深く、別の棟に隔離されているであろう天才技術者、島田五郎の奪還。私の計画では、宮田たちが守衛を無力化し、島田君を連れ出すまでの時間は十五分。そのための陽動が、今まさに施設を揺るがしているこの「騒ぎ」だ。憲兵隊と陸軍内派閥の衝突。それは私が情報操作によって作り出した、絶好の煙幕だった。
島田君は、この時代の日本、いや、世界の未来にとって不可欠な才能だ。彼の頭脳には、後にトランジスタや集積回路へと繋がる、画期的な着想の種が眠っている。それを軍事目的のためだけに使い潰させるわけにはいかない。彼は、戦火の届かない安全な場所で、未来の礎となる研究に没頭すべきなのだ。
この計画は、私という存在を餌にした、壮大な釣りだ。佐伯という執着心の強い魚を食いつかせ、軍の一部を混乱させ、その隙に本命の獲物である島田君を釣り上げる。佐伯は哀れな道化だった。彼は私を解析し、支配しようとしているつもりだったろうが、その実、私の掌の上で踊らされていただけに過ぎない。
その時、独房の鉄扉が、先ほどとは違う、静かで抑制の効いた音を立てて開かれた。
私はゆっくりと目を開ける。そこに立っていたのは、佐伯のような焦燥を纏った男ではなかった。私よりも十歳ほど年上に見える、痩身で理知的な顔つきの将校。肩の階級章は、佐伯よりも上、大佐のものだ。彼の背後には二人の憲兵が控えているが、威圧するでもなく、ただ静かに佇んでいる。
「初めまして、とでも言うべきかな。陸軍省の石動だ」
男――石動大佐は、穏やかな、それでいて底の知れない声で言った。彼の目は、私を被検体としてではなく、交渉相手として値踏みするように、冷静に観察している。
「佐伯中佐は少々、君という存在にのめり込みすぎた。おかげで、満州の前線に送るべき物資の一部に遅延が生じるなど、看過できない事態を引き起こしてくれた」
来たか。佐伯の対抗派閥。そして、私の流した情報に最も効果的に食いついた駒だ。
「それはご愁傷様です。ですが、私には関わりのない話かと」
「白々しい。君が裏で糸を引いていたことは分かっている。君の執事……宮田といったかな。彼が動かした資金の流れと、それに呼応するように流れた噂。そして、一部の政治家やマスコミに渡った内部告発文書。見事な手際だ。一人の男を救出するために、軍の組織をここまで揺さぶるとはな」
石動は淡々と事実を並べ立てる。佐伯とは違い、感情に流されず、事象を正確に把握している。こちらの方が、よほど手強い相手だ。
彼は部屋に足を踏み入れ、机の上に無造作に置かれていた懐中時計を手に取った。
「古神道の秘術、か。佐伯もいよいよ追い詰められていたと見える。理解できないものを前にした時、人は祈るか、あるいは狂気に逃げる。彼は後者だったようだ」
「……それで、大佐殿は、私をどうするおつもりで?」
私は椅子に座ったまま、静かに問いかけた。サイレンの音は、少しずつ遠ざかり始めている。奪還作戦は、最終段階に入った頃だろう。
「取引をしようじゃないか、俊宏君。いや、君が使っている数多の偽名の一つかもしれんが」
石動は懐中時計を机に戻し、私に向き直った。
「君の正体が何者であるか、今の私には重要ではない。不老不死の化け物か、あるいは驚異的な知識を持つただの人間か。どちらでもいい。重要なのは、君の持つ知識と情報、そしてその影響力が、帝国にとって計り知れない価値を持つという事実だ」
彼は一歩、私に近づいた。
「佐伯のように、君を檻に入れて解析するつもりはない。それは愚者のやることだ。私は君を、我々の『協力者』として迎え入れたい。君の安全は保証する。君が救いたがっていた島田五郎という技術者も、我々の管理下で自由に研究をさせる。その代わり、君の知識を帝国の未来のために提供してもらいたい。軍事技術、金融システム、産業振興……君が望むなら、そのためのあらゆるリソースを提供しよう」
それは、悪魔の囁きにも似た、甘美な提案だった。佐伯の暴力的な支配欲とは対極にある、理性的で狡猾な支配の申し出。彼は私を物理的にではなく、国益という名の、より大きな檻に閉じ込めようとしている。
だが、私にとって、この提案は渡りに船だった。軍という巨大な組織から完全に自由になることは難しい。ならば、より御しやすい相手と組み、その力を利用する方が得策だ。
「良いでしょう。取引に応じます」
私の即答に、石動はわずかに目を見開いたが、すぐに納得したように頷いた。
「賢明な判断だ。では、まずはここから出てもらおう。君には、我々が用意した新たな『研究室』に移ってもらう」
その時、遠くの闇の向こうで、赤い光が短く三度、点滅するのが見えた。部屋の唯一の小さな窓から、かろうじて見えるその光。宮田からの、作戦完了の合図だ。
私は口元に微かな笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
「ええ、喜んで。新しい職場は、いつでも歓迎ですから」
檻は変わった。佐伯中佐という個人的な執着の檻から、石動大佐という国家の理性の檻へ。だが、どちらにせよ、檻は檻だ。そして私は、檻の中から外の世界を動かす術を、二千年かけて学んできた。
石動は、私を協力者として利用できると思っているだろう。だが、やがて彼は知ることになる。彼が握っているつもりの手綱は、実は私自身が彼に握らせたものだということを。そして、この新たなる対局の主導権もまた、私にあるということを。
戦時下の日本という、巨大で不安定な盤上で、私の次なる一手が、今、静かに打たれようとしていた。
陸軍の監視下という、奇妙な庇護の元に身を置くことになった俊宏。彼は石動大佐との取引に基づき、島田五郎と共に新たな研究施設へと移される。表向きは帝国のための技術開発に協力しながら、俊宏は水面下で戦後の世界を見据えた、より壮大な計画を進行させていく。新たな仲間、そして新たな敵。歴史の奔流の中で、彼の孤独な戦いは、次なる局面を迎える。