第8話 駒は盤上に
私の「異常性」という名の毒は、予想以上に早く、そして深くこの陸軍施設を蝕み始めていた。独房の鉄扉の向こう側から聞こえてくる、些細な音の変化がそれを物語っている。兵士たちの足音には以前のような規律正しい硬質さがなくなり、どこか浮足立ったような、あるいは何かを恐れるような湿った響きが混じるようになった。時折交わされるひそひそ話。その断片が、私という存在に対する畏怖と混乱の種が、着実に芽吹いていることを教えてくれる。
「被検体は食事も水もほとんど摂らんらしい」
「夜中に、壁に向かって誰かと話しているのを聞いた者がいるとか……」
「佐伯中佐は、あいつに取り憑かれているようだ」
彼らは知らない。私が最低限の水分摂取で生命活動を維持できることも、壁に向かって話しているのではなく、頭の中で無数のシミュレーションを走らせ、外部で動く駒たちへと思考を巡らせているだけだということも。そして、佐伯中佐が私に取り憑かれているのではなく、彼自身の知的好奇心とプライドという名の檻に囚われているだけだということを。
数日が過ぎた頃、再び独房の扉が開かれた。そこに立っていたのは、以前にも増して目の下に深い隈を刻んだ佐伯中佐だった。彼の軍服は完璧に着こなされているが、その内側から滲み出る焦燥と疲労は隠しようがない。
「来い」
短い命令だけを残し、彼は踵を返す。私は黙って立ち上がり、二人の兵士に両脇を固められて後を追った。今回は白い実験室ではなかった。連れて行かれたのは、窓もなく、書物と古めかしい機材が乱雑に置かれた、彼の私室のような部屋だった。部屋の中央には、革張りの椅子が一つ。明らかに私のためだ。
「座れ」
私は言われるがままに椅子に腰を下ろす。佐伯は机に両手をつき、獣のように低い姿勢で私を睨みつけた。彼の背後には、軍医や研究者の姿はない。ここは、彼と私だけの閉ざされた空間だった。
「物理的な解析は限界に達した。薬物による尋問も効果がない。だが、貴様のその頭の中にある情報は、帝国にとって必要不可欠なものだ」
彼の声には、もはや当初の冷静さは欠片もなかった。剥き出しの執着が、ねっとりとした熱を帯びて部屋の空気を満たしている。
「そこで、新たな手法を試すことにした。精神への、より直接的な干渉だ」
彼が机の上から取り出したのは、古びた懐中時計だった。銀の蓋を開け、それを私の目の前でゆっくりと揺らし始める。催眠術。あまりに古風な手法に、私は思わず口元に笑みを浮かべそうになった。
「中佐。本気ですか? そのようなもので、二千年の記憶を持つ精神が揺らぐとでも?」
「黙れ!」佐伯は一喝した。「貴様の常識は通用せん。ならば、こちらの常識も捨てるまでだ。これは単なる催眠術ではない。古神道に伝わる秘術を応用し、被術者の深層意識をこじ開けるための……」
そこまで言って、彼は口ごもった。プライドの高い彼が、非科学的でオカルティックな手法に手を出しているという自覚が、彼自身を苛んでいるのだろう。哀れな男だ。理解できない巨大な存在を前に、拠り所とすべき理性を捨て、藁にもすがる思いで神秘に手を伸ばしている。
「……目を閉じろ。私の声に集中しろ……」
懐中時計が左右に揺れる。単調な動きと、彼の低い声。だが、私の意識は微動だにしない。むしろ、その表層的な揺らぎの奥で、思考はより一層クリアになっていく。
今頃、宮田はどうしているだろうか。
長年私に仕える老執事。彼には、私の拘束と同時に、いくつかの指示を与えてある。まず、私がスイスの銀行経由で密かに築き上げたダミー法人を使い、満州に駐留する一部部隊の物資調達ルートに介入すること。ごく僅かな遅延や、意図的な誤発注を紛れ込ませる。それは帝国陸軍という巨大な機構の中では些細なノイズに過ぎないが、そのノイズは確実に特定の部署、特定の人物の苛立ちを招く。
そして、その苛立ちの矛先が、私の存在を危険視する佐伯中佐の対抗派閥へと向かうように、裏社会の情報屋を使って噂を流させる。*「特務機関の一部が、怪しげな男一人に固執するあまり、前線の兵站を疎かにしている」*と。
仕上げは、一人の若き女性記者だ。彼女は私が支援する小さな新聞社の記者で、強い正義感と探究心を持っている。彼女には、私が提供した断片的な情報を元に、「軍内部の不穏な動き」と「一人の天才技術者(島田五郎)の不当な拘束」を結びつけた記事を書かせている。もちろん、公に発表はさせない。その原稿を、陸軍内の穏健派や政界の一部に「内部告発」としてリークさせるのだ。
全ては、この一点に収束する。島田五郎という、日本の未来に必要な才能を、軍の監視下から完全に切り離し、安全な場所へ移すこと。そのための時間稼ぎであり、陽動であり、内部からの圧力だ。
宮田は、私の意図を完璧に理解し、寸分の狂いもなく実行しているだろう。彼の忠誠心は、金や恐怖で縛られたものではない。私が示す未来へのビジョンと、それに対する共感と信頼。それこそが、二千年の歳月の中で私が学んだ、最も強固な繋がりだ。
「……どうだ、何か見えるか。お前の過去が……生まれた場所が……」
目の前で、必死に言葉を紡ぐ佐伯の声が、遠いどこかから聞こえてくるようだ。私はゆっくりと目を開けた。揺れていた懐中時計は、いつの間にか止まっている。
「見えますよ、佐伯中佐」
私の静かな声に、彼はびくりと肩を震わせた。
「何が……何が見える」
「あなたの心が見えます。あなたは真実を知りたいのではない。ただ、理解できないものを支配したいだけだ。私という存在が、あなたの築き上げてきた世界観、あなたの秩序、あなたのプライドを根底から覆すことが許せない。だから、どんな手を使っても私をあなたの理解の範疇に収め、ねじ伏せたい。違いますか?」
「なっ……貴様、何を……」
佐伯の顔から血の気が引いていく。私は椅子からゆっくりと立ち上がった。彼の狼狽を、値踏みするように見つめながら。
「あなたは私を解析しているつもりでしょうが、同時に私もあなたを解析しているのですよ。あなたの弱さ、あなたの渇望、あなたの恐怖……。その精神的な脆さでは、私には決して届かない」
その時だった。
遠くから、微かにサイレンの音が聞こえてきた。一つではない。複数のサイレンが、この施設に向かってくるかのように、徐々に大きくなってくる。続いて、廊下の向こうがにわかに騒がしくなった。兵士たちの怒鳴り声、慌ただしく走り回る足音。
佐伯が、はっとしたようにドアの方を振り返る。
「何事だ!」
来たか。私は心の中で静かに呟いた。盤上の駒が、動き出したのだ。おそらく、宮田が仕掛けた「外部からの圧力」が、ついに物理的な形となって現れたのだろう。憲兵隊か、あるいは陸軍内の別の派閥か。どちらにせよ、佐伯はこの場に留まってはいられないはずだ。
「どうやら、私にかまけている時間はないようですよ、中佐」
私の言葉に、彼は憎悪と焦燥の入り混じった目で私を睨みつけ、部屋を飛び出していった。
一人残された部屋で、私は再びサイレンの音に耳を澄ませる。島田君の奪還計画は、最終段階に入った。この混乱は、そのための煙幕だ。
檻の中の私は、動けない。だが、私の意志は、この壁を越え、忠実な駒たちを動かし、歴史の歯車を静かに、しかし確実に回している。
この小さな部屋で繰り広げられた精神の戦いは、私の勝利に終わった。そして今、外の広い世界で繰り広げられる、もう一つの戦いの勝利もまた、疑いようのない事実として私の胸に刻まれている。
私は、決して失敗しない。