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現代長寿  作者: tomas
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第7話 解析不能な被検体

重い鉄扉が閉ざされた後の暗闇は、私の思考を外界から遮断する完璧な繭だった。コンクリートの冷たさが背中から伝わり、嗅覚は湿った埃と錆の匂いを捉える。だが、私の意識は五感から切り離され、無限の静寂の中へと沈んでいった。二千年という歳月は、私から多くのものを奪い、同時に、どんな状況下でも己の内側に静謐な領域を確保する術を与えてくれた。


物理的な拘束は、戦略の一環に過ぎない。陸軍の最も有能な頭脳の一つであろう佐伯中佐。彼の関心を私という「ブラックボックス」に集中させること。それが、島田五郎という稀有な才能を、この狂った時代の歯車から救い出すための、現時点での最適解だった。私がここで費やす一分一秒が、外で動く私の駒たちにとっての貴重な時間となる。この独房は檻ではない。私のための、思考の要塞だ。


どれほどの時間が経っただろうか。唐突に、錠が外れる耳障りな金属音が響き、扉が軋みながら開かれた。強烈な光が網膜を焼き、私は僅かに目を細める。逆光の中に立つ二人の兵士のシルエット。彼らは無言のまま房内に入り、私の両脇を乱暴に掴んで引きずり出した。


抵抗はしない。今はまだ、従順な被検体を演じるべきフェーズだ。


連れて行かれたのは、独房の薄暗さとは対照的な、すべてが白で統一された部屋だった。薬品の匂いが鼻をつく。手術台のような寝台が中央に置かれ、その周囲には見たこともない計測機器が並んでいる。壁際では、佐伯中佐が腕を組み、数人の白衣の男――軍医か、あるいは技術廠の研究者だろう――と共に私を待ち構えていた。彼の視線は、もはや犯罪者を見るそれではない。未知の生物を解剖する前の、冷徹な好奇心に満ちていた。


「俊宏殿。昨夜はよく眠れたかな」


佐伯が、感情の乗らない声で問いかける。


「ええ、静かで快適でしたよ。次の投資先について、じっくり考える時間が持てました」


私の皮肉に、彼の眉が僅かに動く。だが、すぐに平静を取り戻し、顎で寝台を指し示した。


「口は後で聞く。まずは、貴殿のその異様な体の秘密を、物理的に解明させてもらう。……服を脱げ」


兵士たちに促され、私は言われるがままに衣服を脱いだ。複数の視線が、値踏みするように私の体に突き刺さる。鍛えているわけではないが、二千年間、常に最適な状態を維持してきた肉体だ。傷一つない皮膚、均整の取れた筋肉。彼らの目には、それがそれ自体で異常なものとして映っているのだろう。


寝台に横たわると、革のベルトで手足と胴体を固定された。完全に無力な状態。だが、私の心は奇妙なほど凪いでいた。これは、かつてローマのコロッセウムで猛獣の前に立たされた時や、魔女狩りの火刑台に括り付けられた時の緊迫感とは違う。目の前にいるのは、迷信や狂気に駆られた群衆ではない。知的好奇心という、ある意味ではそれ以上に厄介な衝動に突き動かされた、理性的な人間たちだ。


「採血を開始しろ。それから、皮膚、筋肉、あらゆる組織のサンプルを採取する。放射線の透過率も調べろ。常人との差異を徹底的に洗い出すんだ」


佐伯の号令一下、研究者たちが機械的に動き出した。腕に針が刺さる鈍い痛み。皮膚の一部を切り取られる鋭い感触。私はそれらすべてを、まるで他人事のように観察していた。痛みはある。だが、その信号は脳に届く前に、私の意識によってフィルタリングされ、単なる客観的なデータへと変換される。


「……脈拍、血圧、共に正常値。ストレス反応が見られません」

「信じられん……これだけの刺激を与えて、脳波にも一切の乱れがないとは……」


研究者たちの囁き声が聞こえる。彼らの困惑が、私には何よりの娯楽だった。


一通りの身体的検査が終わると、次なる段階へと移行した。今度は心理的な、あるいは化学的な尋問だ。


「自白剤を投与しろ。まずは標準量からだ」


再び、冷たい液体が血管に注入される。ナトリウムペントタールだろうか。意識が酩酊し、思考の輪郭が曖昧になっていく感覚。だが、それだけだ。私の意識の中核――二千年の記憶と経験によって築かれた鉄壁の要塞――は、薬物の霧の中にあってもびくともしない。


「……名前は」佐伯が問う。

「俊宏。昨日もお伝えしたはずですが」私は、少しぼんやりとした頭で、しかし明瞭に答えた。


「目的は何だ。誰の指示で動いている」

「私の指示です。目的は、未来への投資だと、これも申し上げましたね」


佐伯の顔に、苛立ちの色が浮かんだ。


「薬が効いていないのか? 量を増やせ!」


追加の薬物が投与される。視界がぐにゃりと歪み、体の感覚が遠のいていく。だが、それでも私の「私」たる部分は侵されない。私はゆっくりと口を開いた。


「……その配合では効率が悪い。バルビツール酸系の薬剤は、個人の精神的耐性によって効果が大きく左右される。スコポラミンを微量加えた方が、記憶の想起と抑制機能の乖離を効果的に誘発できますよ。まあ、もっとも……私にはどちらも効きませんが」


その言葉に、室内の空気が凍りついた。研究者の一人が、カシャン、と持っていた器具を床に落とす。佐伯は絶句し、ただ私を凝視していた。彼らの目に映っているのは、もはや人間ではない。理解の範疇を完全に超えた、解析不能な何かだ。


「……貴様……一体……」


「私は、貴方がたが積み上げてきた常識という物差しでは測れない。そう言ったはずです」私は、朦朧としながらも静かに微笑んだ。「貴方がたが私を解析しようと時間を費やすほど、私という存在の異常性が際立ち、兵士や研究者たちの間に恐怖と混乱が広がっていく。それは、この組織の規律を内側から蝕む、見えざる毒となりますよ」


これは脅しであり、未来の予測でもあった。彼らは私を解明しようとすればするほど、自らの無力さを思い知ることになる。そして、その先にあるのは、畏怖か、あるいは狂気だ。


佐伯は、しばらく押し黙った後、吐き捨てるように言った。


「……今日のところはそこまでだ。独房へ戻せ」


彼は、これ以上実験を続けても無駄だと判断したのだろう。あるいは、彼の理性そのものが、目の前の非現実的な現象を処理しきれなくなったのかもしれない。


再び兵士たちに引きずられるようにして独房へ戻される。体は薬物と検査のせいで気怠く、あちこちが小さく痛んだ。だが、私の心には確かな手応えが残っていた。


重い鉄扉が閉まり、再び暗闇が訪れる。


私は、先程とは違う疲労感を覚えながら、冷たい床に身を横たえた。肉体的な消耗は、計算の内だ。重要なのは、佐伯中佐という男の心に、強力な楔を打ち込めたことだ。彼は今夜、眠れぬ夜を過ごすだろう。私の言葉、私の態度、そして科学では説明のつかない私の肉体。それらが彼の頭の中で渦を巻き、彼の思考を支配する。


それでいい。彼が私に固執するほど、島田君への監視は緩む。私が稼いだ時間と、彼が生み出したその隙を、私の忠実な駒たちが見逃すはずがない。


水面下で進む、もう一つの戦線。私は物理的にここに囚われながらも、精神的には彼らの指揮を執っている。今はただ、この暗闇の中で、静かにその成功を待つだけだ。


肉体の痛みを感じながら、私は薄く笑った。この痛みさえ、未来に繋がる投資なのだ。そして私の投資は、決して失敗しない。

俊宏への常軌を逸した実験は、陸軍施設内に不気味な噂と規律の乱れを生み始めていた。佐伯中佐は、俊宏という存在に個人的な執着を深め、より危険な精神干渉実験へと踏み込もうとする。その頃、俊宏の忠実な部下である老執事・宮田は、彼の指示通り、島田五郎を軍の監視網から奪還すべく、大胆かつ緻密な計画の最終段階に入っていた。スイスの銀行家、裏社会の情報屋、そして一人の若き女性記者。それぞれの駒が配置につき、作戦決行の夜が迫る。檻の中の俊宏と、外で動く者たち。二つの戦場の緊張が、最高潮に達しようとしていた。

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