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現代長寿  作者: tomas
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第6話 観測される神

部屋の空気が、まるで固体になったかのように沈黙していた。私のこめかみから流れる一条の血が、床の埃っぽい板にぽたりと落ちる音だけが、やけに大きく響く。殴りつけた特高の男は、己の手を見つめたまま硬直し、もう一人は反射的に腰の拳銃に手をかけたまま、その場で凍りついていた。


「……き、貴様……一体、何者なんだ……」


佐伯中佐が絞り出すように発した問いに、私は静かに口角を上げた。口の中に広がる鉄の味さえ、この状況を支配するためのスパイスのように感じられる。


「私は、未来への投資家ですよ。そして、私の投資は決して失敗しない」


これは挑発であり、同時に真実だ。私の最大の投資対象は、この二千年という時間そのものなのだから。


佐伯の双眸から、捕食者の愉悦は完全に消え失せていた。代わりに宿っているのは、理解不能な現象を前にした科学者のような、畏怖と強烈な知的好奇心が混じり合った複雑な光だった。彼は軍人である前に、技術廠に籍を置く人間だ。未知の技術、未知の原理を解き明かしたいという本能が、恐怖を上回りつつあるのが見て取れた。


「……怪物め」


彼は低く呟くと、特高たちに鋭く命じた。


「動くな。撃てば、我々は何も知ることができん。……確保しろ。ただし、細心の注意を払え。相手は我々の常識が通用する人間ではない」


その言葉は、私を生物としてではなく、解析すべき対象として捉え直したことを示していた。計画通りだ。彼らの関心は、島田五郎という「兵器になりうる才能」から、私という「未知の存在」そのものへと完全にシフトした。


特高たちが、今度は恐る恐る距離を詰めてくる。私は一切の抵抗を示さなかった。無駄な抵抗は、彼らに余計な警戒心と暴力の口実を与えるだけだ。むしろ、従順であることの方が、彼らの内側に入り込む上で都合が良い。


縄が私の手首に食い込む。その間、私は視線を床にへたり込んだままの島田に向けた。彼は蒼白な顔で、ただ目の前の非現実的な光景を見つめている。恐怖に震える瞳の奥に、何か別の感情が芽生え始めているのを私は見逃さなかった。絶望ではない。それは、理解を超えた力への、ある種の帰依にも似た眼差しだった。


(それでいい、島田君。恐怖を、そして今日のこの光景を、君の記憶に焼き付けろ。君がこれから歩む道は、決して平坦ではない。その時、この記憶が君を支える盾となるだろう)


「島田君」


佐伯が、冷徹な声で彼に告げた。


「君の研究は、今後、陸軍の管理下に置かせてもらう。この男に与えられた資金も、我々が引き継ぐ。君はただ、我々の言う通りに研究を続ければいい。……それが、君が生き延びる唯一の道だ」


島田は何も答えず、ただ小さく頷いた。今の彼に、抵抗する力など残されていない。だが、それでいい。今はそれでいいのだ。


***


研究室を出て、帝国大学のキャンパスを横切る。夕暮れの光が、古びた校舎を赤黒く染めていた。私を中央に、佐伯と特高たちが周囲を固める異様な行列は、すれ違う学生たちの訝しげな視線を集めたが、誰も声をかける者はいなかった。陸軍将校の威圧感が、あらゆる好奇心を封殺していた。


用意されていた黒塗りの軍用車両に押し込まれる。佐伯が私の向かいに座り、車のドアが重い音を立てて閉まると、外界の喧騒が遠ざかった。エンジンが始動し、車は静かに走り出す。


車内には、私と佐伯の二人だけだった。運転席との間には分厚いガラスの仕切りがある。彼は私の尋問官であり、そして今や、私の唯一の観測者だった。


「俊宏殿、と言ったかな」


しばらくの沈黙の後、佐伯が口火を切った。


「改めて問おう。貴殿は、何者だ? その体は……一体どういう仕組みになっている?」


彼の声には、先程までの敵意よりも、純粋な探究心が色濃く滲んでいた。


「仕組み、ですか。私にも分かりません。生まれつき、としか言いようがない」

「ふざけるな。生まれつきだと? 人間が殴られて血を流し、平然としていられるものか。貴殿は痛みを感じないのか?」

「痛みは感じますよ。ですが、痛みと恐怖は別物だ。そして私の目的は、その程度の痛みで揺らぐほど脆くはない」


私は窓の外に目をやった。流れていく帝都の街並み。路面電車が火花を散らし、着物姿の人々と、洋装の人々が入り乱れて歩いている。この時代の、この瞬間の風景。やがて失われ、歴史の一ページとなる光景だ。


「貴殿の目的とは、一体何だ。我が国の転覆か? それとも、特定の外国勢力に利するためか?」

「私の目的は、この国の転覆ではありません。むしろ逆です。転覆を*防ぐ*ため、と言った方が近いかもしれません」

「何……?」


佐伯が眉をひそめる。


「この国は、今、大きな過ちを犯そうとしている。自らの力を過信し、破滅へと続く道を猛スピードで突き進んでいる。私は、その先に待つ未来を知っている。だからこそ、止めなければならない。いや、たとえ止められなくとも、その先の未来に繋がる『種』だけは、守り抜かなければならないのです」


私の言葉に、佐伯は押し黙った。彼の知性では、私が語る言葉の断片を無視できないのだろう。国家への忠誠心と、私の言葉が示す不吉な未来への予感が、彼の中で激しくせめぎ合っているに違いない。


「……予言者気取りか。その妄言を、私が信じるとでも?」

「信じる必要はありません。これから貴方がたが私に行うであろう、あらゆる尋問や実験が、私の言葉の真偽を証明することになるでしょうから」


私は静かに彼を見据えて言った。


「貴方がたは私を調べるでしょう。私の体を、私の精神を、私の過去を。だが、何も得ることはできない。なぜなら、私は貴方がたの物差しでは測れない存在だからです。そして、貴方がたが私に時間を費やせば費やすほど、私の本当の目的は水面下で達成に近づいていく」


私の言葉が、再び車内の空気を凍らせた。佐伯の顔に、わずかな動揺が走る。彼は、私が自ら囚われたことの意味を、ようやく理解し始めたのかもしれない。これは私の敗北ではない。戦いの舞台を、敵地のど真ん中に移したに過ぎないのだ。


やがて車は、都心から離れた、高い塀に囲まれた施設の前で停まった。陸軍の秘密研究所の一つだろう。鉄の門が軋みながら開き、車は中庭へと滑り込んだ。


車から降ろされ、薄暗い廊下を連れて行かれる。コンクリートの壁と鉄格子の匂い。ここが、これから私の檻となる場所だ。


「ここが貴殿の新しい住まいだ。我々が、貴殿という存在の謎を解き明かすまで、ここから出ることはないと思え」


独房の前で、佐伯が最後の宣告のように言った。


「ご配慮どうも。研究には、静かな環境が一番ですから」


私は皮肉で返した。佐伯はそれには答えず、部下に目配せする。背中を押され、私は冷たい独房の中に足を踏み入れた。


背後で、重い鉄の扉が閉まる音が響き渡り、完全な暗闇が訪れた。


一瞬の静寂。


だが、私の心は凪いでいた。視覚が奪われても、聴覚が閉ざされても、私の思考は止まらない。この独房は、私を閉じ込める檻であると同時に、軍の注意を引きつけておくための最高の舞台だ。


私がこの暗闇の中で時間を稼いでいる間に、私の張り巡らせた見えざるネットワークが動き出す。島田五郎を、この狂った時代から救い出すために。


冷たいコンクリートの床に腰を下ろし、私は静かに目を閉じた。私の戦いは、新たな局面を迎えた。檻の中で捕らわれているのは、果たしてどちらなのか。その答えが出るまで、そう長くはかからないだろう。

陸軍の秘密施設に監禁された俊宏。佐伯中佐の指揮のもと、彼の不老不死の謎を解明するための非人道的な尋問と実験が開始される。薬物投与、拷問、心理分析……あらゆる手段をもってしても、俊宏の心身は決して屈しない。その異常な存在は、逆に施設の兵士や研究者たちの間に、静かな混乱と原初的な恐怖を広げていく。一方、俊宏が稼いだ時間を利用し、彼の忠実な部下たちは島田五郎を軍の監視下から奪還するための大胆な作戦を実行に移そうとしていた。物理的に囚われた俊宏の精神的な戦いと、水面下で進む救出劇。二つの戦線が、緊迫の度を増していく。

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