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現代長寿  作者: tomas
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第5話 捕食者の檻

八木教授とその家族を乗せた船が水平線の彼方へ消えてから、私を取り巻く空気は目に見えて粘度を増していた。これまで私を尾行していた「影」は、単なる監視者から、獲物を追い詰める猟犬へとその性質を変えたようだった。彼らの視線はもはや隠れることをやめ、あからさまな圧力として私の皮膚を刺す。陸軍憲兵隊と特高警察の連携が強化されたのだろう。私の張り巡らせた情報網が、彼らが血眼になって私の金の流れと、背後にいるはずの「組織」を追っていると報告していた。


だが、彼らが追えば追うほど、その本質から遠ざかっていく。私の本当の資産は銀行口座の数字でもなければ、登記簿上の法人名でもない。二千年という時間が編み上げた、知識と人脈、そして何よりも未来を知るという絶対的なアドバンテージだ。彼らは霧を掴もうとしているに過ぎない。


しかし、時間は私の味方ではなかった。歴史という名の急行列車は、破局の駅へと猛スピードで突き進んでいる。残された時間は少ない。私が守るべき種子は、まだこの帝都の片隅で、時代の喧騒に気づかぬまま芽吹こうとしていた。


次の目標は、若き数学者、島田五郎。帝国大学の片隅にある薄暗い研究室で、時代から隔絶されたように自らの理論に没頭する男だ。彼の研究テーマは「自動計算機械」。歯車と継電器リレーを組み合わせ、人間の論理演算を機械に代替させようという、あまりに途方もない夢。この時代の人間には理解し難いその研究は、しかし、半世紀後の世界を根底から作り変える情報革命の、まさに最初の産声だった。


当然、軍も彼の才能に目をつけていた。弾道計算、暗号解読……彼の純粋な知的好奇心は、国家にとって最高の兵器になりうる。すでに陸軍の技術将校が何度か彼のもとを訪れているという情報は、私の耳にも届いていた。八木教授の二の舞、いや、それ以上に悲惨な未来が彼を待ち受けていることは想像に難くない。


私は覚悟を決めた。八木教授の時のように、水面下で慎重に事を運ぶ猶予はない。監視の目はそれを許さないだろう。ならば、こちらも真っ向から行くしかない。自らが囮となり、彼らの注意を極限まで引きつける。その上で、目的を遂行する。


私が島田の研究室がある本郷のキャンパスに足を踏み入れた時、周囲の空気が一変したのを肌で感じた。潜んでいた猟犬たちが一斉に身を起こし、包囲網を狭めていく気配。彼らは私がここに来ることを、確信していたのだ。罠だと知りながら、私はその中心へと歩を進めた。


***


古びた木造校舎の廊下は、ホルマリンと埃の匂いが混じり合っていた。島田の研究室の扉は、鍵もかからずに少しだけ開いている。中から、微かな金属音と、男たちの話し声が漏れ聞こえていた。


私が音もなく扉を開けると、室内の全員の視線が私に突き刺さった。


部屋の中央には、痩身で神経質そうな青年——島田五郎が、怯えたように立ち尽くしている。彼の周囲には、床から天井まで届きそうな鉄製の棚に、無数の歯車や配線、そしてカチカチと音を立てる継電器が迷宮のように広がっていた。彼の夢の残骸、あるいは未来のプロトタイプ。


そして、その島田と対峙するように立っていたのは、怜悧な光を宿す双眸を持つ陸軍将校と、その脇を固める二人の特高警察の男だった。


「……ようやくお見えになりましたな、俊宏殿」


将校が、冷たい笑みを浮かべて言った。その声には、獲物を追い詰めた捕食者の愉悦が滲んでいる。


「お待ちしておりました。陸軍技術廠の佐伯と申します」

「これはご丁寧に。ですが、あなた方のような方が、一介の研究者の部屋で何を?」


私は努めて平静に、そして無知を装って尋ねた。私の視線の先で、島田が助けを求めるように微かに顔を歪める。


「とぼけるのはおやめなさい」


佐伯中佐は、私の芝居を一蹴した。


「八木秀次を海外へ逃がしたのも貴殿の差金でしょう。久我山財閥の金と影響力を使い、この国の貴重な頭脳を次々と海外へ流出させている。一体、何の目的で?」


彼の言葉は鋭く、私の核心を突いてくる。


「目的、ですか。強いて言うなら、知の保存でしょうか。才能というものは、適切な場所で、適切な目的のために使われてこそ花開くものです」

「その『適切な場所』とやらが、敵国であるアメリカやイギリスだとでも?」

「敵、ですか。今の私には、時代そのものが敵のように思えますが」


私の答えに、佐伯の眉がぴくりと動いた。彼の横に立つ特高の一人が、苛立ったように一歩前に出る。


「貴様、国家への反逆思想を公言するか!」

「まあ待て」


佐伯がそれを手で制した。彼は私の目をじっと見つめ、まるで魂の底まで見透かそうとするかのように続けた。


「俊宏殿。貴殿の素性は、我々が総力を挙げても掴めなかった。金の出所も、その人脈も、まるで霞のようだ。だが、一つだけ分かっていることがある。貴殿は、異常なまでに未来を見通す目を持っている。そして、その目的のためには金も、手段も、惜しまない」


彼は一歩、私に近づいた。


「我々はその力を、この国のために使いたい。島田君のこの『計算機械』も、貴殿の資金援助がなければここまで形にはならなかっただろう。その慧眼、素晴らしい。ならば、この才能も国家のために捧げるのが筋というものではないかね?」


彼の言葉は、巧みな懐柔と脅迫が織り混ざった毒だった。私を取り込み、私の力を軍の、国家の管理下に置こうという明確な意志。


「お断りします」


私は、間髪入れずに答えた。


「彼の才能は、兵器を作るためにあるのではない。人の暮らしを豊かにし、思考を助けるためにある。殺戮の道具に成り下がらせるくらいなら、私はこの研究ごと、ここで燃やし尽くすことも厭わない」

「……愚かな」


佐伯は、心の底から失望したように息を吐いた。


「交渉は決裂、と受け取る。……もはや、貴殿を生かしておくわけにはいかんな。その危険な思想ごと、ここで消えてもらう」


彼の合図で、二人の特高が私に向かってきた。島田が悲鳴に近い声を上げる。部屋の隅で、彼の作り上げた計算機械が、まるで心臓の鼓動のように、カチ、カチ、と無機質な音を立て続けていた。


逃げ場はない。だが、逃げる気もなかった。

横浜の波止場で覚悟した通り、この局面で私にできることは一つ。


*私の不老不死という異常性を、究極の盾として使うことだ。*


特高の一人が、私の腕を掴もうと手を伸ばす。私は避けなかった。もう一人が、懐から取り出した警棒を振りかぶるのが、スローモーションのように見えた。


ドン、という鈍い衝撃が側頭部を襲う。視界がぐらりと揺れ、熱い液体がこめかみを伝うのを感じた。


しかし、私は倒れなかった。


一瞬の静寂。殴りつけた特高の男が、信じられないものを見たかのように目を見開いている。彼の腕は、鉄塊でも殴ったかのような衝撃に痺れているのかもしれない。


私はゆっくりと顔を上げ、口元に滲んだ血を手の甲で拭った。そして、表情一つ変えずに、凍りついている佐伯中佐を見据えた。


「……言ったはずです、佐伯中佐」


私の声は、自分でも驚くほどに静かで、冷徹に響いた。


「暴力では、思考は止められない。論理は破壊できない。この程度の痛みで、私の目的が変わるとお思いか?」


部屋の空気が、恐怖で凍てついた。島田は腰を抜かしたようにその場にへたり込んでいる。特高たちは、目の前の人間が理解できず、明らかに狼狽していた。血を流しながら平然と語りかける男。それは、彼らの常識を、世界の法則を根底から覆す光景だった。


佐伯中佐の顔から、捕食者の余裕が消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは、未知の存在に対する原初的な畏怖と、そして、それを解明せずにはいられないという研究者のような強い好奇心だった。


「……き、貴様……一体、何者なんだ……」


彼の絞り出すような声に、私は静かに答える。


「私は、未来への投資家ですよ。そして、私の投資は決して失敗しない」


これは賭けだ。私の異常性が、彼らの理性を麻痺させ、行動を躊躇させることへの賭け。そして、この狂気の沙汰の中で、島田という才能を守り抜くための、たった一つの活路。


歴史の闇に葬られてきた一つの事件が、今、静かに幕を開けた。この檻の中で、本当に捕らえられているのは、果たしてどちらなのか。冷たい鉄の匂いの中で、私の戦いは新たな局面を迎えようとしていた。

異常な存在であることを白日の下に晒した俊宏。佐伯中佐は彼を拘束し、その秘密を解明しようと試みる。陸軍の施設に監禁され、尋問と実験が繰り返される日々。しかし、決して屈せず、死ぬこともない俊宏の存在は、逆に軍内部に混乱と恐怖を広げていく。一方、俊宏が時間を稼いでいる間に、彼の張り巡らせたネットワークが、島田を救出するために動き出す。物理的に囚われた俊宏と、水面下で進む救出作戦。二つの戦いが、静かに火花を散らす。

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