第4話 未来への疎開
私の背後についていた影は、いつしか日常の風景の一部となっていた。陸軍憲兵か、あるいは特高警察か。そのどちらでも大した違いはない。彼らは私の行動を逐一記録し、接触する人物を洗い出し、私が何者であるのかを突き止めようと躍起になっている。彼らにとって、久我山財閥という巨大な後援者を持ちながら、特定の事業に肩入れするでもなく、ただ静かに未来の技術の種を蒔き続ける私は、得体の知れない不穏分子に映っているのだろう。
日比谷の交差点を渡り、帝国ホテルへと向かう。待ち合わせの相手はいない。ただ、豪奢なロビーの喧騒の中に身を置くことで、執拗な監視の目から一時的に逃れることができる。新聞を広げれば、紙面は「満州国建国」の文字で埋め尽くされていた。犬養毅が凶弾に倒れてから数ヶ月、この国の政党政治は事実上の死を迎え、軍靴の響きはもはや誰の耳にも隠せないほど大きくなっていた。
歴史の奔流は、私が知る通りの軌跡を辿りつつある。破滅へと向かう急流だ。流れそのものを堰き止めることなど、神ならぬ私にはできはしない。できるのは、流れの勢いをわずかに逸らし、そして、激流が過ぎ去った後の荒れ地に、新たな芽吹きのための種子を残しておくことだけだ。
「もはや、待っている時間はないか……」
小さく呟き、私は新聞を畳んだ。監視の目が厳しくなればなるほど、私の計画は困難になる。決行は、今しかない。
***
久我山の書斎は、以前にも増して重苦しい空気に満ちていた。彼は窓の外、灰色に沈む帝都の空を眺めながら、私が差し出した紅茶に口もつけずにいた。
「俊宏殿。貴殿が支援している東北の八木という教授……陸軍の技術廠から、正式な招聘があったそうだ」
久我山は、振り向きもせずに言った。その声には、疲労と諦観が滲んでいる。
「指向性アンテナの研究が、長距離爆撃機の誘導や敵艦船の探知に応用できる、と。軍はあの男の頭脳を欲している。兵器として、だ」
「ご忠告、感謝します」
「忠告ではない。最後通牒かもしれん」
彼はゆっくりと振り返り、その老獪な目で私を射抜いた。
「軍は、貴殿が背後にいることを嗅ぎつけている。貴殿という得体の知れない金脈が、なぜ一介の研究者に過ぎない男たちに大金を投じるのか。彼らはその理由を『利敵行為』、あるいは『海外勢力との内通』と結びつけ始めている。……そろそろ、手を引いた方が身のためだぞ」
財閥の長としての、現実的な判断だろう。私という火種が、久我山財閥そのものを焼き尽くしかねない。だが、私はその言葉に静かに首を横に振った。
「手を引けば、彼らの才能は殺戮のために使われるだけです。そして、この国が敗れた時、その技術と共に焦土に埋もれることになる」
「……敗れる、だと?」
久我山の眉が険しく動いた。この時代において、国家の敗北を口にすることは、それだけで大逆と見なされかねない。
「ええ。今の道を進めば、必ず。だからこそ、私は彼らをこの国から『疎開』させます」
「疎開だと? 馬鹿を言え! それは亡命だ。国賊の所業ではないか!」
久我山が声を荒らげた。彼の怒りは、国家への忠誠心からか、それとも破滅的なリスクを提示されたことへの恐怖からか。
「見方を変えていただきたい。これは逃亡ではありません。未来への投資です」
私は一歩踏み出し、彼の目をまっすぐに見据えた。
「私が守りたいのは、国家という一時的な器ではない。この地に生きる人々の営みと、彼らが紡いできた知の叡智そのものです。いずれこの国が焼け野原になった時、再び立ち上がるためには、種子が必要になる。彼らのような頭脳こそが、その種子なのです」
私の言葉に、久我山は押し黙った。彼の知性が、私の言葉の裏にある、あまりに巨大で冷徹な時間軸を理解しようとせめぎ合っているのが分かった。彼は長い沈黙の末、深く、重い息を吐き出した。
「……正気の沙汰ではない。貴殿は、いつもそうだ。まるで、百年先から今を眺めているような口を利く」
彼は椅子に深く身を沈め、天井を仰いだ。
「わかった。……だが、協力はできん。財閥の名を、そのような危険な賭けに使うことは許されん」
「承知しています。これは、私個人の戦いです」
「……ただし」
久我山は、指でこめかみを押さえながら続けた。
「私の知らぬところでやるというのであれば、止めはせん。万が一、火の手が上がったならば……風向きを変えるくらいの火消しはしてやるやもしれん。……期待はするな」
それは、彼が差し出せる最大限の譲歩であり、そして、私という存在に対する最後の賭けだった。
「十分です」
私は深く頭を下げた。これ以上は望むべくもない。
***
計画は、水面下で静かに、しかし迅速に進められた。私が世界中に張り巡らせた法人ネットワークと人脈は、こういう時のためにある。スイスの大学からの偽の招聘状、アメリカの研究所への留学手続き、渡航費用と当面の生活費。すべてを、金の流れが追跡できないよう、幾重にも偽装されたルートで手配した。
最初の対象は、東北でアンテナの研究に没頭する八木教授だった。私は彼が学会で上京する機会を捉え、神田の古書店で偶然を装って接触した。監視の目が光る中、書棚の陰で、私は彼に一枚の紙片を手渡した。
「八木先生。あなたの研究は、世界を変える力を持っています。しかし、このままでは兵器として使い潰されるだけだ。海外で、もっと自由に研究を続けていただきたい」
「き、君は一体……?」
彼の顔には、困惑と警戒が浮かんでいた。匿名で多額の研究費を援助してくれる謎のパトロンが、突然目の前に現れたのだ。無理もない。
「私の名など、重要ではありません。ただ、未来を憂う一人の人間だとお考えください。これは、先生と、先生の築き上げた知を守るための唯一の道です」
私が差し出した紙片には、海外の大学名と、連絡先となる海外の弁護士事務所の名前だけが記されていた。疑念を抱きながらも、彼は軍からの圧力と、研究の自由が奪われつつある現状に、思うところがあったのだろう。数日後、彼から指定された連絡先に、暗号化された短い電信が届いた。受諾の意思表示だった。
彼とその家族が横浜港から客船に乗り込む日、私は波止場から少し離れた倉庫の陰から、その姿を遠巻きに見守っていた。私の周囲には、いつもより多くの「影」がうろついている。私の動きは、完全に彼らに掴まれているのだ。
だが、それでいい。彼らの注意が私に集中している隙に、本当に守るべきものが、この国から静かに旅立っていく。
ふと、胸に奇妙な感覚が込み上げてきた。これまで二千年以上、私は常に傍観者として、死んでいく人々を見送ってきた。しかし、今行っていることは違う。歴史の流れに積極的に介入し、自らを危険に晒している。
私の不老不死という特性。それは、無限の時間を使って知識と富を蓄積するためのアドバンテージだった。だが、この局面においては、別の意味を持ち始めている。
*死なない体。捕らえられても、拷問を受けても、殺されることはない。*
それは、究極の盾であり、時間を稼ぐための最後の切り札になりうる。自らの身を危険に晒すことを厭わなければ、救える命がある。守れる未来がある。
これは、傍観者ではいられないという私の意志の現れか。それとも、永い孤独が、私をより人間的な行動へと駆り立てているのか。答えはまだ、見つからない。
船の汽笛が、低く、長く響き渡った。黒い船体がゆっくりと岸壁を離れていく。
私の蒔いた種の一つが、嵐を避けて新たな大地へと運ばれていく。だが、まだ終わらない。守るべき才能は、他にもいる。特に、あの若き数学者……歯車と継電器で「計算」の論理を組み上げようとしている、孤独な天才。彼の元にも、すでに軍の影は伸びているはずだ。
私の戦いは、始まったばかりだ。そしてそれは、これまで以上に私自身の存在を賭けたものになるだろう。冷たい潮風が、私の覚悟を確かめるように頬を撫でていった。
1900年代編はこれで終わりです。
次回からは昭和後期編をお送りします。