第2話 帝都の揺らぐ日、金融の礎
明治という激動の時代が終わりを告げ、世は大正に移っていた。私が日本に拠点を移してから、十年以上の歳月が流れた。横浜の居宅から見える景色も、ガス灯の頼りない光は電灯の鋭い輝きに取って代わられ、街には市電が走り、人々の服装も和洋が入り混じって華やかさを増している。私が久我山を通じて投資した電力事業は、着実にこの国の夜を照らし、工場を動かす力となり始めていた。
だが、光が強まれば影もまた濃くなる。急速な近代化は、社会の様々な側面に歪みを生んでいた。特に私の目に付いたのは、この国の金融システムの脆弱さだ。第一次世界大戦の好景気に沸いた後、その反動で経済は不安定になり、乱立した銀行は脆弱な経営基盤のまま、杜撰な融資を繰り返していた。手形一枚で経済が根底から覆りかねない、砂上の楼閣。私はこの危うさを見過ごすことができなかった。
「相変わらず、貴殿の興味は時流とは少しずれたところにあるようだ」
久我山は、彼の財閥が新たに建てた丸の内の洋館の一室で、私に向かってそう言った。十年という歳月は彼の顔に深い皺を刻んだが、その眼光の鋭さは少しも衰えていない。
「皆が紡績だ、海運だと騒いでいる時に、電力と通信に目をつけた。そして今度は、銀行の仕組みかね。俊宏殿、貴殿はいったい何を見ている?」
「十年、二十年先、と言えばご納得いただけますか」
私は静かに答える。
「今は一枚の紙切れが、人の信用だけで街から街へと渡り、金と同じ価値を持っている。ですが、その信用が一つ揺らげばどうなるか。 domino倒しのように、健全な商人まで破綻していく。この国には、その流れを堰き止め、血流を正常に保つための、強固な心臓がまだない」
「心臓……中央銀行のことか。日銀はあるが」
「形だけでは意味がない。個々の銀行を監督し、いざという時には最後の貸し手となる機能。そして何より、迅速で確実な決済システムが必要です。ロンドンやニューヨークでは、もはや常識です」
私の言葉に、久我山は腕を組んで深く考え込む。彼は私の先見性を理解し、それによって莫大な利益を得てきた。だが同時に、私の存在そのものへの理解しがたい感覚を隠そうとはしない。彼は、私が何者なのか、その知識がどこから来るのか、常に探っている。
「未来を見てきたかのような口ぶりは相変わらずだな……。よろしい。貴殿の言う『心臓』とやらを築くための構想、具体的に聞かせてもらおう」
その日から、私は久我山を介して、大蔵省の若手官僚や気鋭の銀行家たちと、匿名で接触を始めた。欧米の先進的な金融制度に関するレポートを届けさせ、来るべき経済危機への警鐘を鳴らし続ける。しかし、好景気の余韻に浸る彼らの反応は鈍かった。私の警告は、遠い国の話としてしか受け取られていないようだった。
そして、運命の日が訪れる。
大正十二年(千九百二十三年)九月一日。その日、私は横浜の居宅の書斎で、海外の金融市場に関する電信文を読んでいた。昼食の時刻が近づいた、その時だった。
まず、地鳴りのような轟音が地の底から突き上げ、次の瞬間、立っていられないほどの激しい揺れが襲った。本棚から無数の書物が雪崩のように落ち、窓ガラスが甲高い音を立てて砕け散る。二千年以上の時を生きてきたが、これほど強烈な自然の暴威に直接見舞われた経験は数えるほどしかない。
揺れが収まった時、窓の外には地獄が広がっていた。土煙が舞い上がり、あちこちで家屋が倒壊している。そして間もなく、黒煙が空へと立ち上り始めた。火災だ。木造家屋が密集するこの国の都市は、地震の後の火災にあまりにも無力だった。
私は瓦礫と化した街を、冷静に、しかし迅速に歩き始めた。個人の命を救うことに奔走しても、この規模の災害の前では焼け石に水だ。私の為すべきことは、もっと別の場所にある。目指すは東京、丸の内。久我山と、そしてこの国の金融中枢の安否を確認し、来るべき「第二の災害」に備えるためだ。
道中、目にした光景は凄惨の一言に尽きた。泣き叫ぶ人々、燃え盛る家々、絶望に打ちひしがれる顔、顔、顔。私の心に感傷がなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に強く感じていたのは、歴史の必然に対する一種の諦念と、自らに課せられた役割への冷徹な使命感だった。多くの命が失われる。だが、国そのものを死なせてはならない。
数日後、辛うじて連絡がついた久我山と、半壊した彼のオフィスで再会した。彼は幸いにも無事だったが、その顔には深い疲労と絶望の色が浮かんでいた。
「……俊宏殿、見たかね。帝都は、横浜は、灰になった」
「ええ。ですが、本当の危機はこれからです」
私の静かな言葉に、久我山はハッとしたように顔を上げた。
「銀行が、機能していません。帳簿は燃え、手形はただの紙切れになった。このままでは取り付け騒ぎが全国に広がり、日本経済そのものが窒息死する」
私の指摘は、現実のものとなりつつあった。政府はモラトリアム(支払猶予令)を発令したが、それは単なる時間稼ぎに過ぎず、根本的な解決にはならない。金融恐慌は、もはや目前に迫っていた。
「どうすればいい……。どうすれば、この国は立ち直れる?」
「再建です。すべてが破壊された今だからこそ、新しいものを、より強固なものを築く好機でもある」
私は懐から一枚の設計図を取り出した。それは、この数年間、私が密かに構想を練り上げてきた、新しい金融決済システムの概念図だった。
「これは?」
「震災手形の処理を円滑に進め、銀行間の貸借を即座に決済するための仕組みです。私が持つ欧州のネットワークと資金を使い、一時的に政府の信用を肩代わりすることも可能でしょう。ですが、これはあくまで応急処置。本丸は、これを機に、恒久的な手形交換所と、銀行の健全性を監督する強力な機関を創設することです。私が以前から話していた『心臓』を、この瓦礫の上に築くのです」
久我山は、私の差し出した設計図と、私の顔を、信じられないものを見るような目で見比べた。彼の目には、畏怖と、そして拭い去れない疑念が浮かんでいた。
「……貴殿は、まるでこの事態が起こることすら、予見していたかのようだ」
私は答えず、ただ窓の外に広がる、瓦礫と化した帝都の姿を見つめた。
人々は嘆き、悲しみ、それでも明日を信じて瓦礫を拾い始めるだろう。それが人間の強さだ。そして、私の役割は、彼らが再起するための土台を、誰にも知られず、静かに、しかし確実に用意すること。
この未曾有の国難は、皮肉にも、私が描く未来への大きな一歩となった。古いしがらみが焼き尽くされた更地に、新しい秩序の種を蒔く。それは、永遠の時を生きる私だからこそ可能な、途方もない事業だ。
胸をよぎるのは、いつもの静かな孤独感。この痛みを、この計画を、共有できる者は誰もいない。だが、それでいい。私は歴史の観測者であり、同時に未来への水先案内人なのだから。
再び、私は新たな手帳を開く。震災復興と金融システムの再構築。その先に待つ昭和という時代、そして二度目の世界大戦の足音。私の戦いは、まだ始まったばかりだ。
関東大震災からの復興が進む中、俊宏が築いた金融の礎は日本経済を支え始める。しかし、世界恐慌の波が押し寄せ、軍部の台頭が顕著になると、彼の描いた未来図に暗い影が差し始める。技術基盤の強化を急ぐ俊宏の動きは、次第に国家の監視の目に触れる危険を孕んでいく。時代の大きなうねりの中で、彼は自身の原則と行動の狭間で新たな決断を迫られることになる。