第12話 焼け跡の設計図
あの小さな加算回路が産声を上げてから、季節は幾度も巡った。我々が「理性の檻」と自嘲した研究室は、今や迷宮と化していた。床から天井まで、おびただしい数の配線が血管のように走り、数千本の真空管を収めたラックが壁のように林立している。部屋全体が常に熱を帯び、絶えず低いうなり声を上げるその様は、まるで巨大な生物の体内に入り込んだかのようだった。
「島田君、クロック信号に揺らぎが出ている。B-3区画の分周回路をチェックしてくれ」
「はい! おそらくコンデンサの容量抜けです。すぐに交換します!」
呼びかけに応じる島田五郎君の声は、数年前の面影を残しながらも、確かな自信と、一種の狂気を帯びていた。もはや彼の頭の中には、軍事研究への倫理的な葛藤など一片も残っていない。あるのはただ、この目の前の機械――我々が『自動式順次制御型電子計算機』と呼ぶようになった怪物――を完成させることへの、純粋で猛烈な渇望だけだった。彼は、私が与えた未来の設計図を、現実世界に具現化させる最高の腕を持つ職人であり、同時に、最初の信奉者でもあった。
戦争の影は、日に日に色濃く、そして暗く、この国のすべてを覆い尽くしていた。ラジオが伝える威勢のいい報道とは裏腹に、配給は滞り、街からは活気が消えた。そして、ついにB-29爆撃機の編隊が、この東京の空にも日常的に姿を見せるようになった。遠くで鳴り響く空襲警報のサイレンと、地を揺るがす爆音。それすらも、我々にとっては研究を中断させる合図にはならなかった。むしろ、我々は世界の終わりが迫るかのようなその喧騒の中で、より一層、目の前の作業に没頭していった。
「まだか、俊宏君。貴様が作っているものは、一体いつになったら形になるんだ」
ある日、焦燥を顔に浮かべた石動大佐が、埃っぽい軍靴で研究室に踏み込んできた。彼の背後で明滅する真空管の光が、その険しい横顔を不気味に照らし出す。
「B-29を撃ち落とすための神の雷ではなく、ソロバンのお化けを造っているようにしか見えんのだが」
「大佐。精密な雷を落とすには、まず精密な天候図が必要です。これは、その天候図を描くための道具です。敵機の速度、高度、風向き……無数の変数を瞬時に計算し、未来位置を完璧に予測する。そのための、脳です」
私はラックの一つを指し示しながら、冷静に答えた。嘘は言っていない。ただ、この脳が予測する未来が、一機の戦闘機の軌道に留まらないことを言わないだけだ。
「……脳、か」
石動は、ゆっくりと明滅を繰り返す真空管の列を睨みつけた。彼の目は、単なる技術への無理解から来るものではない。この機械の本質が、彼に与えられた『新型無線誘導装置』という枠組みを遥かに超えていることに、彼は本能的に気づいていた。そして、それを操る私の存在そのものへの、根源的な疑念も。
「君という男は、いつもそうだ。本質を突いているようで、最も肝心な何かを隠している。だが、もはや賽は投げられた。帝国には時間がない。何でもいい、結果を出せ。使えるものなら、悪魔の頭脳でも利用してやる」
彼はそれだけを言い残し、背を向けた。その背中には、一個人の力ではどうしようもない巨大な奔流に呑み込まれゆく国家と、それに殉じようとする男の悲壮な覚悟が滲んでいた。彼が国益という檻で私を飼っている間、私は彼の庇護の下で未来の種を育てている。我々は、互いに互いを利用し合う、奇妙な共犯者であり続けた。
そして、その終わりは、唐突に訪れた。
昭和二十年、八月十五日。うだるような暑さの中、研究室のラジオが、いつもの軍歌とは違う、厳粛な君が代を流し始めた。作業の手を止めた私と島田君の耳に、これまで一度も聞いたことのない、甲高い、しかし威厳のある声が届いた。
『……堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス……』
玉音放送。天皇自身の声による、ポツダム宣言の受諾。敗戦の告知だった。
ペンチを握りしめたまま、島田君が呆然と立ち尽くす。彼の瞳から、あれほど燃え盛っていた狂気の光が、すうっと消えていくのが分かった。
「……嘘だ……。じゃあ、僕たちは……一体、何のために……」
虚ろな声が、静まり返った研究室に響く。真空管のうなりと、窓の外から聞こえる蝉の声だけが、やけにうるさかった。
私は、何も言わなかった。歴史の大きな転換点に立ち会うのは、これが初めてではない。帝国の崩壊、王政の終焉、革命の勃発。幾度となく、人の世の栄枯盛衰をこの目で見てきた。一つの価値観が崩れ落ち、人々が絶望に打ちひしがれるその瞬間は、常に次の時代の始まりを意味する。
その日の夕刻、軍服を脱ぎ、よれよれの国民服に着替えた石動が、一人で研究室を訪れた。もはや彼は大佐ではない。ただの、敗戦国の国民の一人だった。
「……終わったな」
彼は、巨大な計算機の骸の前に立ち、ぽつりと呟いた。
「ええ。終わりました。そして、始まります」
私の言葉に、彼はゆっくりと振り返った。その目に、もはや軍人としての鋭さはない。代わりに、全てを失った男の、空虚な問いが宿っていた。
「俊宏君。いや……君は、一体何者なんだ?」
二千年の時の中で、幾度となく投げかけられてきた問いだ。私は、煙草に火をつけながら、窓の外に目を向けた。空襲で焼け落ちた街並みが、赤い夕日に染まっている。
「ただの、投資家ですよ。石動さん。私は、未来に投資する」
「未来だと? この焼け野原のどこに、未来があるというんだ」
彼は自嘲するように笑った。
「ここにあります」
私は、彼の背後にある計算機を親指で示した。数千の真空管と、数万の配線で編まれた、我々の創造物。
「国は滅び、軍は解体された。しかし、技術は残る。知識も残る。我々がこの檻の中で育てたこの『計算する力』こそが、この国を再建するための、唯一にして最強の道具になります。工場を再建するにも、経済を立て直すにも、食糧生産を計画するにも、全てに『計算』が必要だ。それを、人間の何千倍もの速さで行う機械が、ここにある」
私の言葉に、石動は息を呑んだ。彼はゆっくりと、改めて目の前の機械を見つめた。それはもはや、彼が開発を命じた兵器の部品ではない。焼け跡から立ち上がるための、唯一の設計図のように見えただろう。
「……君は、この日が来ることを知っていたのか。戦争が始まる前から」
「歴史は繰り返します。ただ、少しずつ形を変えながら。重要なのは、どのサイクルに賭けるか、ですよ」
石動はしばらく黙っていたが、やがて、ふっと息を吐いた。それは諦念のようでもあり、新たな理解のようでもあった。
「……面白い。私の信じた『国』は灰になったが、君の信じる『未来』とやらは、まだこの機械の中に生きている、というわけか」
彼は私に向き直り、初めて対等な人間を見るかのような、奇妙な光を瞳に宿した。
「いいだろう。乗ってやる。君の言う『未来』とやらに、私の余生を賭けてみよう。この焼け跡で、一体何が始められるのか、見届けてやる」
焼け野原となった東京の空に、一番星が瞬き始めた。理性の檻は崩壊し、我々を縛っていた大義名分も消え去った。だが、その檻の中で密かに育てられた技術の種は、誰にも知られず、しかし力強く、この灰の中から芽吹く時を待っていた。
それは、戦争を終わらせるための抵抗ではなく、戦争が終わった後の世界を創るための、我々の真の戦いの始まりだった。
これでおしまいです。