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現代長寿  作者: tomas
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第11話 檻の中の創造

石動大佐が用意した「理性の檻」は、皮肉なほどに研究者にとっての理想郷だった。高い塀と鉄条網が外界の喧騒を遮断し、内部には静謐な時間が流れている。与えられた研究棟は、帝国陸軍の予算がいかに潤沢であるかを物語っていた。ドイツから輸入された最新の測定機器、アメリカ製の精密な工作機械、そして何より、研究に没頭するために必要なだけの資材と時間が、そこにはあった。


私の隣には、まだどこか落ち着かない様子で、真新しい白衣に袖を通した島田五郎君がいた。彼はまるで夢でも見ているかのように、実験室の機材一つひとつを子供のような瞳で眺めている。


「……信じられません。これほどの設備が、本当に我々の自由に使えと?」


「ええ、自由に使えます。ただし、結果を出すという条件付きでね」


私が答えると、彼ははっと我に返り、背筋を伸ばした。彼の純粋な知的好奇心と、軍事研究に加担することへの倫理的な葛藤が、その表情に入り混じっている。佐伯の狂気の実験室から彼を救い出したのは私だが、同時に、より大きな戦争という狂気の中に彼を引きずり込んだのも、また私なのだ。


「石動大佐から与えられた最初の課題は、『新型無線誘導装置』と、それに付随する『暗号システム』の開発です。まずはここから始めましょう」


私は黒板にチョークで大まかな概念図を描き始めた。指向性の高い電波を用いて目標を追尾し、同時に暗号化された命令を送受信する。この時代の技術レベルからすれば、かなり野心的な計画だ。しかし、不可能ではない。


「これほどの精度を求めるとなると、計算量が膨大になります。特に目標の未来位置を予測する部分で……既存の計算手(人間)では、リアルタイムでの誘導は追いつきません」


島田君は即座に技術的なボトルネックを指摘した。彼の頭脳は、すでにフル回転を始めている。私が彼を求めた理由が、そこにある。


「その通りです。だから、我々は計算する機械を造る。人間ではなく、真空管で」


「真空管で……計算を?」


彼の目が、驚きに見開かれた。彼の専門である真空管は、あくまで信号の増幅や検波に使うもの、というのがこの時代の常識だ。それを計算に応用するという発想は、まだほとんど誰にも理解されていない。


「スイッチング素子として使うのです。オンとオフ。1と0。その組み合わせで、あらゆる論理演算が可能になる。足し算も、引き算も、そして、あなたが指摘した複雑な微分方程式さえも」


私は、黒板にブール代数の基礎的な論理ゲートを描いてみせた。AND、OR、NOT。それは、これから始まる情報化時代の創世記を記す、最初の文字列だった。島田君は、食い入るようにその単純な記号の羅列を見つめている。彼の頭脳の中で、無数の回路図が凄まじい速度で結びついていくのが、手に取るように分かった。


「……なるほど……フリップフロップ回路で二進数の状態を記憶させ、それを連続的に切り替えることで……演算が可能に……? しかし、そのためには膨大な数の真空管が必要です。信頼性と消費電力の問題が……」


彼の口からは、もはや兵器開発への躊躇いの言葉は消えていた。純粋な技術的挑戦への興奮が、彼を完全に支配している。それでいい。それでこそ、島田五郎だ。


「問題は一つずつ解決しましょう。まずは、安定した二安定マルチバイブレータ(フリップフロップ)の設計からです。それが我々の造る『自動計算機』の、最初の一個の神経細胞ニューロンになる」


その日から、我々の研究は昼夜を問わず続けられた。表向きは無線誘導装置の開発。しかし、その心臓部で我々が創造しようとしていたのは、人類史上初の電子計算機に繋がる、原初の機械知性だった。


島田君は天才だった。私が提示した未来のビジョンと理論的骨子を、彼は驚異的なスピードで現実の回路へと落とし込んでいく。はんだの焦げる匂い、真空管が放つ独特の熱、オシロスコープに映し出される美しい矩形波。研究室は、新たな生命を創造する工房と化した。


時折、石動大佐が予告なく視察に訪れた。彼は我々の研究の進捗を黙って見つめ、黒板に書きなぐられた数式や回路図に鋭い視線を送る。


「ずいぶんと、基礎的な研究に時間をかけているようだな」


ある日の夕刻、彼はオシロスコープの波形を指して言った。その声には、わずかな疑念が滲んでいる。


「大佐。精密な誘導装置を造るには、精密な部品が必要です。そして、その部品を造るには、まず精密な物差しを造らねばなりません。我々が今やっているのは、その『物差し』を造る作業です。この『安定したパルス信号』こそが、未来のあらゆる電子技術の基礎となる物差しなのです」


私は、真実を巧みに糊塗しながら答えた。嘘は言っていない。ただ、その物差しが計測する対象が、ミサイルの軌道だけでなく、やがては経済指標や科学技術計算、果ては人間の思考そのものにまで及ぶとは言わなかっただけだ。


石動はしばらく黙って私を見つめた後、ふっと口元を緩めた。

「……面白い。君の言葉は、常に本質を突いているように聞こえる。結果を出す限り、プロセスには口出ししない。約束通りだ。だが、忘れるな。帝国には時間がない」


彼はそう言い残し、去っていった。彼が私という存在を「理解不能なリソース」として扱う限り、この奇妙な共犯関係は続くだろう。彼は国益という檻で私を飼っているつもりだろうが、その檻こそが、私の計画を守る最高の盾となっていた。


研究開始から数ヶ月が経ったある夜、実験室で仮眠を取っていた私は、島田君の興奮した声で揺り起こされた。


「俊宏さん! できました! これを見てください!」


彼の目の下には深い隈が刻まれていたが、その瞳は狂気的なまでの輝きを放っていた。彼が指さす先には、数十本の真空管と配線で組まれた無骨な回路基板があり、その横の表示ランプが、規則正しく点滅を繰り返している。


「基本的な加算回路です。二進数の四桁までの計算が、誤差なく、瞬時に……!」


それは、まだ掌に乗るほどの小さな一歩だった。だが、人類にとっては偉大な飛躍だ。人間が脳で無意識に行ってきた「計算」という行為を、初めて機械が代替した瞬間だった。


私は回路が弾き出す答えを検算し、その完璧な動作を確認した。そして、疲れ果てた表情の中に誇りを滲ませる島田君の肩を、強く叩いた。


「おめでとう、島田君。我々は今、歴史の歯車を一つ、未来へと動かしたんだ」


「これは……兵器開発の一部ですよね? でも……何かが違う気がするんです。これは、もっと……もっとすごいものの一部なのではないかと……」


彼の声は、畏れと期待で震えていた。


私は窓の外に広がる、灯火管制で沈んだ東京の闇を見つめた。ラジオからは、連日勇ましい戦果が報道されている。何十万という人間が、互いに殺し合う狂気の時代。その同じ空の下で、我々は、戦争を終わらせた後の世界で、何億という人々を生かすことになる技術の産声を、静かに聞いていた。


この矛盾。この孤独。二千年の時を生きる中で、幾度となく味わってきた感覚だ。歴史の大きなうねりの前では、一個人は無力だ。しかし、時に、たった一つの発明、たった一つの理論が、そのうねりの方向を決定的に変えることがある。


「ええ、その通りです。我々が造っているのは、兵器ではない。未来の設計図そのものです」


私は島田君に向き直り、静かに告げた。


「そして、この設計図を完成させることこそが、この狂気の時代に対する、我々の最大の抵抗になるでしょう」


私の言葉に、島田君は息を呑み、そして、力強く頷いた。彼の瞳から、最後の迷いが消え去ったのが分かった。


理性の檻の中で、未来の創造は始まった。それは誰にも知られることのない、孤独な、しかし確かな一歩だった。

戦争の影が色濃くなる中、俊宏と島田の研究は着実に進展していく。彼らが創り出した「自動計算機」の原型は、石動大佐の想像を超える可能性を秘めていた。やがて訪れる終戦の時、焼け野原となった日本で、彼らが檻の中で育んだ技術の種はいかにして芽吹くのか。そして、俊宏と石動、二人の奇妙な関係は、時代の大きな転換点の中で、新たな局面を迎えることになる。

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