第10話 理性の檻
鉄の扉が開かれ、外の空気が流れ込んでくる。それは独房の淀んだ空気とは違う、硝煙と混乱の残り香が混じった、生々しい夜気だった。私は石動大佐に促されるまま、二人の憲兵に前後を挟まれる形で廊下へと足を踏み出す。
通路の壁には、争いの跡が痛々しく残っていた。壁に刻まれた弾痕、床に飛び散った血の染み。佐伯中佐が仕掛けた茶番と、それに乗じて私が起こした混乱の残骸だ。だが、その喧騒はすでに過去のものとなり、今は石動の部下たちが粛々と事後処理にあたっている。彼の統率力は、佐伯の激情とは対極にある、冷徹な効率性によって支えられているらしかった。
「佐伯中佐とその派閥の者たちは、規律違反と軍機漏洩の疑いで拘束した。満州の件も、これで正常化するだろう」
前を歩く石動が、独り言のように呟く。私に聞かせているのは明白だった。これは彼の勝利宣言であり、私に対する無言の警告でもある。軍という組織を私物化しようとすればどうなるか、その見せしめだ。
「それは結構なことです。私の処遇も、その流れで決まったと?」
「君は佐伯の『被検体』だった。そして彼は職務を逸脱した。よって、君に関する管轄権は、暫定的に陸軍省預かりとなる。我々が用意した場所に移ってもらう」
淡々とした口調には、有無を言わせぬ響きがあった。やはり、この男は手強い。暴力や脅しではなく、組織の論理と規則という、より強固な鎖で相手を縛る術を知っている。
施設の出口で待っていたのは、黒塗りの軍用車両だった。夜の闇に溶け込むようなその車体は、私を新たな檻へと運ぶための柩車にも見えた。車に乗り込むと、重いドアが閉まり、外界の音が遠ざかる。東京の夜景が、窓の外を静かに流れ始めた。
「君が望んでいた技術者、島田五郎は無事に保護した。宮田という執事も、すでに安全な場所へ移してある。これで、取引の第一段階は履行したことになる」
エンジン音だけが響く車内で、石動が口火を切った。
「感謝します。それで、私に何を望まれるのですか、大佐」
「帝国は、技術の力で欧米列強と渡り合わねばならん。だが、現状はあまりに遅れている。通信、暗号解読、索敵技術……課題は山積している。君の持つ、時代の数歩先を行く知識が、我々には必要なのだ」
「私の知識が、ただ本を読んだだけのものだとはお考えに?」
私の問いに、石動は初めて私の方を向き、その理知的な双眸を細めた。
「君の言葉には、ただの知識ではない、『経験』に裏打ちされた重みがある。君が何者であるかは問わん。重要なのは、君が帝国にとって有益であるか否か、だ。私は君を、協力者として遇する。必要な研究資材、人員、予算は最大限提供しよう。君は、その頭脳を提供する。これは対等な取引だ」
対等、か。面白いことを言う。二千年の時を生きてきた私と、せいぜい数十年という時間しか持たない彼が、どうして対等であり得ようか。だが、彼の言う「対等」という言葉は、佐伯の「支配」とは確かに違う。彼は私を理解不能な怪物としてではなく、利用価値のある特異なリソースとして扱おうとしている。その理性的な姿勢こそが、私にとって最大の好機だった。
「良いでしょう。協力します。ですが、一つ条件があります」
「言ってみろ」
「研究の自由です。軍事転用可能な技術であることは理解していますが、その基礎となる純粋な科学研究については、私の裁量に任せていただきたい」
戦後の世界で花開く技術の種を、この戦時下の土壌に植える。それが私の真の目的だ。半導体、電子計算機、情報通信理論。それらの基礎研究を、軍事研究というカモフラージュの下で進める必要がある。
石動は数秒間黙考した後、小さく頷いた。
「……よかろう。結果を出す限り、プロセスには口出ししない。それが私のやり方だ」
その言葉を最後に、車内には再び沈黙が訪れた。彼は私という得体の知れない存在を、国益という檻の中に閉じ込めたつもりだろう。だが、彼が用意したその理性の檻は、私にとっては格好の実験場に過ぎなかった。
車が停止したのは、都心から少し離れた郊ăpadă。高い塀と鉄条網に囲まれた、一見すると何の変哲もない研究施設だった。だが、内部に一歩足を踏み入れると、その印象は一変する。最新鋭のドイツ製測定器、アメリカから取り寄せられたばかりの実験器具、そして何より、研究に没頭するための静謐な環境。佐伯の独房とは雲泥の差だ。ここは、知識を生み出すための工場だった。
案内された一室で、一人の男が不安げな顔で私を待っていた。歳の頃は三十代前半。度の強い眼鏡の奥で、知性と怯えが入り混じった瞳が揺れている。彼こそが、私がこの茶番劇を仕組んでまで手に入れたかった逸材、島田五郎だった。
「はじめまして、俊宏と申します」
私が名乗ると、彼は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「し、島田五郎です! あの……あなたが、私を……?」
彼の声は緊張で上ずっていた。無理もない。数時間前まで軍の施設で尋問を受けていたのが、突如としてこの場所に連れてこられ、見ず知らずの男を前にしているのだから。
「状況が飲み込めないのも無理はありません。ですが、ご安心を。あなたはもう安全です。そして、ここで思う存分、あなたの才能を発揮していただきたい」
「私の……才能……?」
「ええ。あなたの真空管に関する論文、拝見しました。特に、不純物半導体におけるキャリアの移動に関する考察は、非常に興味深い。もし、その理論をさらに発展させることができれば、今の無線通信技術は根底から覆るでしょう」
私の言葉に、島田君の目が驚きに見開かれる。彼の研究は、この時代の日本ではまだほとんど理解されていない、あまりに先進的なものだった。それを、初対面の男が的確に評価してみせたのだ。彼の怯えが、少しずつ好奇心へと変わっていくのが分かった。
「……あなたは何者なのですか? なぜ、私の研究を……」
「私は、未来に投資する者です」
私は静かに答えた。「そして島田君、あなたの頭脳は、私が知る中で最も価値のある投資先の一つだ」
その時、部屋の外で控えていた石動が、咳払いをして中へ入ってきた。
「話は済んだかね。さて、島田君。君と、この俊宏君には、当面、新型の無線誘導装置と暗号システムの開発に取り組んでもらう。詳細は後ほど伝えるが、必要なものは全て用意させる。帝国の未来のために、尽力してくれたまえ」
石動はそう言い残し、部下と共に去っていった。部屋には、再び私と島田君の二人だけが残される。彼の言葉は、この場所が紛れもなく軍の管理下にあるという事実を、改めて我々に突きつけていた。
「軍の……兵器開発、ですか……」
島田君が、力なく呟く。彼の理想は、純粋な科学の探求にあったのだろう。
私は彼の肩に手を置き、窓の外に広がる夜空を指さした。
「見てください、島田君。彼らは、あの夜空に浮かぶ月を指さすよう我々に命じている。ですが、我々が見るべきは月そのものではない。その先にある、無数の星々です」
「星……?」
「ええ。彼らが望む兵器開発は、あくまで目先の月に過ぎない。我々は、その研究を通して、さらにその先……誰も見たことのない、新しい宇宙の法則を掴むのです。それは、戦争が終わった後、この国の、いや、世界中の人々の暮らしを豊かにする、真の光となるでしょう」
私の言葉に、島田君は息を呑んだ。彼の瞳から、先ほどまでの怯えが消え、代わりに天才技術者だけが持つ、純粋な探求心の炎が宿り始めていた。
「一緒に、未来の礎を築きましょう。この、理性の檻の中で」
檻は変わった。しかし、目的は変わらない。佐伯という個人的な狂気の檻から、石動という国家の理性の檻へ。どちらにせよ、檻は檻だ。だが、今は島田五郎という、未来を共に創造できる仲間がいる。
二千年という長過ぎる時間の中で、幾度となく感じてきた孤独。だが、時折こうして、時代を画する才能と出会い、共に未来を創る瞬間がある。その一瞬の輝きこそが、私をこの永い旅路に繋ぎとめる、唯一の理由なのかもしれない。
戦時下の日本という、巨大で不安定な盤上で、私の次なる一手が、今、静かに打たれようとしていた。
陸軍の監視下という、奇妙な庇護の元に身を置くことになった俊宏。彼は石動大佐との取引に基づき、島田五郎と共に新たな研究施設へと移される。表向きは帝国のための技術開発に協力しながら、俊宏は水面下で戦後の世界を見据えた、より壮大な計画を進行させていく。新たな仲間、そして新たな敵。歴史の奔流の中で、彼の孤独な戦いは、次なる局面を迎える。