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現代長寿  作者: tomas
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第1話 極東の夜明け、永遠の始まり


西暦千九百十年、明治四十三年。横浜港は、むせ返るような活気と混沌に満ちていた。石炭の煙と潮の香りが混じり合い、人力車の車夫の威勢のいい声と、荷揚げされる貨物の軋む音が絶え間なく響く。私はゆっくりとタラップを降り、日本の土を二百年ぶりに踏みしめた。最後にこの地を訪れたのは、徳川の世がまだ盤石に見えた頃だった。様変わり、という言葉では生ぬるい。まるで別世界だ。


「お客様、お宿はお決まりで?」


声をかけてきた車夫の顔を一瞥し、私は静かに首を振る。そして、懐から取り出した紙に書かれた西洋建築のホテルの名を告げた。男は心得たとばかりに頷き、私を自身の引く黒塗りの人力車へと案内する。


西暦0年、ユダヤ属州の片隅で生を受けてから、既に千九百年以上の時が流れた。ローマ帝国の興亡、暗黒の中世、ルネサンスの輝き、大航海時代の喧騒、そして産業革命の煙。数えきれないほどの国家の誕生と滅亡、無数の人々の生と死を、私はただ傍観者として、あるいは時折、歴史の些細な歯車として見届けてきた。


外見は二十八の歳から変わらない。その理由を科学的に、あるいは魔術的に探ろうとした時代もあったが、結局何も分からなかった。ただ、そういうものとして受け入れるしかない。それが、二千年近くを生きて得た、ささやかな処世術だった。


私が今、この極東の島国に拠点を移そうと決めたのには理由がある。欧州の古い帝国は黄昏を迎え、新大陸の若き国家はその有り余る力を持て余し始めている。その中で、この日本という国は異質だった。わずか半世紀で封建社会から脱し、西洋の技術と制度を貪欲に吸収し、ついには大国ロシアを打ち破った。この国には、西欧列強の模倣に終わらない、独自の発展を遂げる熱量と可能性が満ちている。


ホテルの一室で、私はヨーロッパから取り寄せた分厚い資料の束に目を通していた。金本位制に復帰したばかりの日本の金融市場はまだ脆弱だが、裏を返せば外部からの影響を与えやすい。ロンドンのシティで築き上げた資産の一部を、この国に振り向けるのは容易いことだ。問題は、どこに、誰に、投資するかだ。


「――電力、か」


呟きが漏れる。ガス灯の光が揺れるこの時代、ほとんどの人間は電気の本当の価値を理解していない。だが私は知っている。送電網が津々浦々に張り巡らされ、あらゆる動力と情報が電気信号に置き換わる未来を。電力を制する者が、次の百年を制する。それは歴史の必然だ。


数日後、私は旧知のフランス人銀行家からの紹介状を手に、ある財閥系商社の重役室の扉を叩いていた。目の前に座る男、名を久我山くがやまという。五十代半ば、鋭い眼光の奥に、古い武士のような剛毅さと、商人らしい狡猾さを併せ持った男だ。


「それで、俊宏殿。貴殿は欧州の金融資本を、我が国の発展のために仲介したいと?」


久我山は値踏みするような視線を私から外さない。私は落ち着き払ったまま、カップの紅茶を一口すする。


「仲介、というよりは、直接の投資です。私は個人の投資家として、将来性のある事業に資金を提供したいと考えています」

「ほう。例えば、どのような事業に?」

「電力、そして通信です」


私の言葉に、久我山の眉がわずかに動いた。


「面白い。紡績や製鉄ではなく、電力と通信かね。確かに重要な事業ではあるが、莫大な初期投資の割に、利益回収には時間がかかる。いわば道楽のようなものだ」

「短期的な利益には興味がありません。私が興味を持つのは、十年、二十年、あるいは五十年後の日本の姿です。久我山殿、想像してみてください。この国の全ての工場が電気で動き、全ての家庭に光が灯る。遠く離れた者同士が、電信や電話で瞬時に言葉を交わす。それはもはや道楽ではなく、国家の基盤そのものになる」


私の言葉は、未来を知る者の確信に満ちていた。久我山はしばらく黙り込み、私の目をじっと見つめていたが、やがてその口元に獰猛な笑みを浮かべた。


「……気に入った。貴殿のその、まるで未来を見てきたかのような口ぶりは、詐欺師か天才のどちらかだ。どちらに転ぶか、賭けてみるのも一興かもしれん」


それが、私の日本における最初の布石だった。久我山を通じて、私は黎明期の電力会社や、無線通信技術を研究する小さな研究所に、匿名で多額の資金を流し始めた。表向きは、海外の事情に明るい若き貿易コンサルタントとして、財閥や新興企業に助言を与える日々。決して目立たず、権力の中枢には近づかない。ただ、未来への種を静かに蒔き続ける。


夜、自室の窓から横浜の街を見下ろす。ガス灯が作り出す光と影のまだら模様は、まるでこの国の未来を暗示しているかのようだ。私はグラスに注いだ琥珀色のウイスキーを傾けながら、思考を巡らせる。


この国はやがて二つの大きな戦争を経験し、一度は灰燼に帰すだろう。だが、それでも復活する。私が蒔いた技術の種は、その復興の礎となるはずだ。そしてその先には、コンピュータとインターネットが織りなす、情報化社会が待っている。


私はその時も、きっとここにいる。


周囲の人々が時代という奔流に飲まれ、老い、死んでいく中で、私だけが取り残される。久我山のような面白い男も、いずれは土に還る。その出会いと別れを、私はもう何度繰り返してきただろうか。感傷はない。あるのは、永遠の時を生きる者としての、静かな責任感と、時折胸をよぎる底なしの孤独だけだ。


グラスを置き、私は新しい手帳を開く。これから築き上げるべき金融システム、支援すべき研究、育成すべき人材。やるべきことは山積みだ。これは、私の新たな人生の始まりに過ぎない。この国で、私は再び「今の時代」を生きるのだ。来るべき未来の基盤を、この手で築き上げるために。


遠くで汽笛が鳴り響いた。新しい時代への船出を告げるかのように。私はその音を聞きながら、静かに目を閉じた。私の戦いは、いつだってここから始まる。

大正の世に移り、俊宏は日本の未発達な金融システムに目を向ける。関東大震災という未曾有の国難の中で、彼はその知識と資産を使い、未来の日本経済の礎を築くため、静かに動き出す。しかし、彼の不可解な先見性は、次第に周囲の疑念を招き始める。

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