65 立ち止まってはいられない
殿下は、私の言葉を最後まで聞くと、短く息を吐いた。
「……そうか」
そう呟いてから、背後へ視線を投げる。
「イグナス」
空気が、静かに揺れた。
次の瞬間、暖炉の影から、灰色の瞳の男が姿を現す。
灰色の瞳……。
魔法使いだ。
「——失礼いたします、女神様」
その声は低く、礼儀正しい。
だが、そこに畏怖はない。
「クルーディアのことをもう一度、話してくれるか」
「……御意」
影は一瞬だけ視線を伏せ、淡々と口を開く。
「フォーレンス嬢は、頻繁に外出していますが意図的に誰かと接触している様子はありません。ただ——特定の山域へ、繰り返し足を運んでいます」
私の胸が、きしりと鳴った。
特定の、山。
それが何を指すかはわかる。
「その際、必ず周囲のが歪みます。魔法かどうかは断定できませんが、おそらく。……本人の魔力ではありません」
「“寄せられている”……?」
思わず、言葉がこぼれた。
影が、わずかに目を細める。
「その表現が、最も近いかと」
殿下が、私を見る。
「——どう思う?」
「……私も、確信はありません」
私は、正直にそう言った。
「ですが……私の知る闇は、“大きな悪意”よりも、小さく、抑え込まれた感情を好みます」
口にしながら、胸の奥が嫌な形で疼く。そんなものを、私はいくつも知っている。
“寄せられている”のだとしたら。
「私も、闇が…彼女を引き寄せているのだと、思います」
影が、静かに頷いた。
「……やはり、女神様も同じ結論に」
「ええ」
私は、殿下を見る。
「もしかしたら…彼女は、敵かもしれないし、敵ではないかもしれません。
ですが、私も——彼女は…この事に、関わっていると思います」
「なら、やることは一つだな」
殿下が、静かに言う。
その瞳には、真っ直ぐな覚悟がある。
「闇の根を断つ。同時に——これ以上巻き込ませない」
私は、はっと息をのんだ。
殿下は。
全てを守ろうとしている。
「ですが……それは、とても危険です」
「あぁ。分かっている」
殿下は、迷いなく答える。
「だが、放置すれば、もっと多くの者が傷つく」
そして、私をまっすぐ見据えた。
「ルアリナ。君は、女神として導け。俺は、皇太子として、1人の国民として、剣を取る。それに…」
殿下は、そこで言葉を止める。
「男として、君を守る」
……ああ。
この人はずっと変わらない。
その真剣な瞳に、吸い込まれる。
「……ありがとう、ございます」
私は、そう言った。
「では——準備を始めましょう」
闇は、もう動き出している。
私たちも、立ち止まってはいられない。




