60 どうして気づかなかったんだろう
霧の奥に口を開けた洞窟は、外よりもなお濃い闇を孕んでいた。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
——ぞわり。
背骨を撫でるような、冷たい感覚が走る。
「……っ」
無意識に、握っていた拳に力が入る。
洞窟の奥から、確かに“呼ばれている”感覚がする。
音も、言葉もないのに。
何かが、はっきりと伝わってきた。
止まらなければならないのに、私の体が言うことを聞かない。
罠だった…!
きっと…魔物の誘導もクルーディア様も、前座に過ぎない。
本命は——この奥だ。
「ルアリナ、そちらは……!」
殿下の声が、すぐ傍でする。その手が、私の腕を掴んだ。
強く、確かな温度。
けれど、その瞬間。
洞窟の“何か”が、私を標的に定めたのが手に取るようにわかる。
「っ殿下!危険です!罠でし——」
言い切る前に、足元の魔力が歪んだ。
引きずられる。
意識ごと、奥へ。
いけない、巻き込まれる!
「っ……!」
反射的に、魔力を解放する。
急いで。
ただ、“行き先”だけを思い描く。
——ここじゃない、安全な場所へ。
「捕まって!」
私は、殿下の手をぎゅっと、握る。
次の瞬間。
視界が、ひっくり返った。
視界が、白く弾ける。
霧も、闇も、圧迫感も。
一瞬で、すべてが消え去ったようだ。
代わりに。
「……っ……?」
風の音も、魔物の気配もない。
行き先も定めぬまま、転移した場所だ。
目の前にあるのは、古い木造の家だった。
蔦が絡み、時の流れを感じさせる外観。けれど、不思議と荒れていない。
まるで——。誰かが、ずっと待っていたかのように。
それに。
何か、すごく…懐かしいような。
それに、どこかで……。
「……ルアリナ、ここは…?」
殿下が、低く呟く。
私は、殿下の腕をまだつかんていることに気づき、慌てて離した。
その声が、ほんのわずかに揺れていた。
「知っている場所ではないのですが…なぜここが転移先なのでしょうか…?」
もし…アルテイア様がここへ導いたのだとしたら。
あれ、アルテイア様?
そうだ、思い出した。
前に、精霊界へ行った時、アルテイア様の家を見た気がする。
あの家と、似ているのだ。
私は、無意識に玄関の扉へと手を伸ばしていた。
鍵は、かかっていない。
きい、と小さな音を立てて、扉が開く。
「失礼、します…」
声が反響する。
中は、静まり返っていた。
机。椅子。暖炉。並べられた食器。
すべてが、“生活の途中”のように残されている。
「……変だな」
殿下が、ぽつりと言う。
「落ち着く……理由は分からないが」
その言葉に、私は頷く。
「私もです」
ここが本当にアルテイア様の家だとしたら。
きっと、私の場合は…魂が、懐かしんでいるのだろう。
じゃあ、殿下……セシル様の場合は?
私は、彼を見つめる。
変わらない、美しい月のような目。
これと同じ色を、どこかで……。
「なんだ?」
「あっ…いえ、なんでもないです」
私は、誤魔化すように家の奥へと足を進める。
目に留まったのは、棚の上の。
埃をかぶった、一枚の絵が飾られた、絵立て。
手に取った瞬間、指先が、かすかに震えた。
なぜなら。
絵に映るのは、自分と同じ…銀髪碧眼の女性……やはり、ここはアルテイア様のお家……。
絵立ての額縁を外す。
直感で、そうしなければと思った。
中にはもう一枚、絵があって。
記憶の中で何度も見た、幸せな家族の絵。
ご子息様に、エーテリウス様。
裏を見ると。
古い文字。丁寧な筆跡。
そこに書かれていたのは——。
“愛する妻子”
エーテリウス様の字だろうか。
……その短い言葉に、たくさんの気持ちが、込められている。
そして。
殿下は……。
静かに、絵を見つめている。
その時、胸の奥で、何かが、音を立てて繋がった。
アルテイア様が彼を誘ったのは…。
——偶然なんかじゃない。
私は、まだ声には出さない。
けれど。
この家が、この絵が、そして——彼が。
何を意味しているのか。
もう、分かってしまった。
私は、こんなにも長い間、どうして、気づかなかったんだろう。
エーテリウス様と、セシル様が……どこか…似ていることに。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも、続きが気になると思っていただけたら。
評価やブックマーク、お願いします。




