59 不穏な静けさの中で
霧は、歩くほどに濃くなっていく。
視界は数歩先で途切れ、音だけがやけに鮮明だった。
濡れた地面を踏む音。
剣が鞘に触れる、かすかな金属音。
そして——何かの気配。
嫌な静けさ。
息を潜めて、こちらを待っているような沈黙。
「ルアリナ、気をつけろ」
その瞬間、地面が軋んだ。
霧を裂くように、大きな影が躍り出る。
魔物だ。
しかも、一体ではない。
「下がれ」
殿下が、即座に前に出た。
迷いのない、洗練された動き。
……速い。
一撃で魔物の動きが止まる。
だが、それで終わりではない。
右。
左。
背後。
私も、魔力を解き放つ。
光が霧を押し退け、魔物は悲鳴を上げる暇もなく崩れ落ちた。
短い戦闘。
だが。
……おかしい。
気配の割に数が少ない。
そして、引き際が早すぎる。
「……誘導、ですね」
「あぁ。俺もそう思う。その可能性が高い」
その時だった。
「……あれは、人か?」
殿下の低い声。
霧の向こうに、人影があった。
霧が、ほんの一瞬だけ薄れる。
紫の髪。
見覚えのある輪郭。
胸が、嫌な音を立てる。
「あれは……」
声が、喉で引っかかる。
「……クラウディア様……?」
人違いであってほしい。
けれど——否定できなかった。
彼女は、霧の奥に口を開けた洞窟へと、迷いなく歩いていく。
黒く、深い洞窟。
そこから滲み出る、言葉にできない気配。
「クラウディ——」
そちらは危険、そう呼びかけようとした瞬間、殿下の手が、私の口を塞いだ。
彼女は、そのまま洞窟の中へ消える。
残されたのは、重く沈んだ空気だけ。
「……ダメだ。こちらを悟られてはならない」
洞窟の奥から、何かが脈打つ感覚が伝わってくる。
皮膚が、ひりついた。
「……殿下」
目を離せないまま、言う。
「彼女……今、普通じゃありません。なぜか、わからないけど……以前の彼女ではないわ」
やがて、洞窟の奥から、再び人影が現れる。
無表情。何事もなかったかのような佇まい。
その時。
黒い瞳が、こちらを捉えた。
一瞬、私と、目が合う。
次の瞬間。
彼女は、恐ろしいほどの敵意を宿した視線を向けてきた。
「……っ」
そして彼女は、にやりと笑う。
何も言わない。何も残さない。
ただ、霧の中へ溶けるように消えていった。
森が、再び息を潜める。
私は、唇を噛みしめた。
今のは、偶然じゃない。
まさか…。
彼女は、私たちが来ることを、知っていた……?
ぞわり、と。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「……っ殿下」
絞り出すように言う。
「急ぎましょう」
殿下は短く頷く。
「ああ……嫌な予感がする」
霧の奥。
見えない場所で、何かが、確実に動き出している。
それが、帝国の運命を左右するものだとは、まだ知らない———。
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