58 掴んだ手を、離すために
転移陣の光が、足元でほのかに光る。
次の瞬間、白い石畳と、見慣れた宮殿の門が視界に広がった。
……来てしまった。
逃げ場のない現実が、胸に落ちる。
「っ……本当に、来たのだな」
低い、驚くような声。
息が、止まった。
「え……!?セ…殿下…どうして………」
門の前に立っていたのは、間違いなく彼だった。
どうして、ここに?
「なぜ……私が来ると……」
問い終える前に、セシル様は視線を逸らした。
「夢で、初代皇帝に、教えてもらった」
「初代……皇帝……」
エーテリウス様のことだ。
私は、無意識に拳を握る。
エーテリウス様は、アルテイア様同様、すべてを知っているのだろう。
でも、どうしてセシル様に……?
まさか。
一瞬、ある可能性が思い付いたが、私は首を振る。
な訳、ないわ。
「それよりも」
セシル様は、私を真正面から見据える。
逃げられない距離で。
「行かなくてはならない場所が、あるのだろう?」
「……はい」
私は、視線を逸らさずに答える。
「帝国は、闇に呑まれつつあります。魔物の被害件数が最も多い山へ向かいたいと考えています。……そこで、何かヒントに繋がるものを、見つけたいのです」
言い切った瞬間、自分の声が少し震えているのに気づいた。
今は、感情に構っている場合じゃない。
セシル様の存在に、心を乱されている場合じゃない。
私は、目の前にいる殿・下・と、この帝国を守るために、ここにいる。
「わかった」
殿下は、迷いなく言った。
「すぐに向かおう。準備は要らない」
……即答。
それが、少しだけ胸に刺さる。
殿下……“セシル様”を、危険な目に、合わせたくないのに。
「では、転移します。殿下……お手を」
私は、そう言って、手を差し出した。
一瞬。
殿下の動きが、止まる。
ほんのわずかな躊躇。
それは、私が知っている彼のものだった。
「あ……あぁ」
指先が、わずかに触れる。
次の瞬間、確かな体温が、掌に伝わった。
熱い。
思っていたよりも、ずっと。
胸の奥が、つん、と痛む。
久しぶりに触れたその温度は、忘れたふりをしてきた記憶を、容赦なく揺さぶってきた。
だめ……今は……駄目。
私は、すぐに魔力を展開する。
光が、二人を包み込む直前。
殿下が、低く囁いた。
「……俺・が、守るから」
その声は、かつての……セシル様のもので。
心臓が、跳ねる。
返事をする暇もなく、視界が白に塗り潰された。
次の瞬間。
冷たい風が、頬を打った。
森が広がる。
霧が、異様なほど濃い。
白霧村のものとは違う。
重く、澱んでいる。
心なしか、記憶の中で見た時より、澱んでいるような。
「……ここが」
殿下が呟く。
「はい魔物被害が、最も多い場所です」
地面には、無数の爪痕。倒れたままの木々。
そして。
遠くで、何かが、低く唸った。
胸の奥で、女神の力がざわつく。
近い…っ!!
間違いない。
本能が告げている。
ここは、根源に近い。
私は、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと殿下の手を離す。
もう、掴み続ける理由はない。
「行きましょう、殿下」
前を向いて、言った。
「ここから先は……覚悟が、必要です」
殿下は、一瞬だけ私を見てから、微笑む。
「ああ。既に承知している」
そして、付け加える。
「……それでも、共に行く」
霧の奥で、闇が、確かに蠢いていた。
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