55 気づいたのは、失った後だった 【セシル視点】
柔らかな光に満ちた空間だった。
眩しいわけではない。
ただ、澄んでいる。
「……来たか」
背後から声がした。
振り向いた先に立っていたのは、俺とよく似た男。
背丈も、佇まいも。
だが、一つだけ。
瞳に浮かぶ色だけが、違う。
深い、深い悲しみと、拭いきれない悔恨を宿した目。
「……あなたは」
「エーテリウスだ」
その名を聞いて、息を呑む。
帝国の始まりを築いた、初代皇帝の名だったからだ。
「混乱していることだろう。だが、時間がない」
胸の奥がざわついた。
「世界は…今、崩れかけている。闇はすでに、根を張っている」
「…闇、ですか」
問い返すと、彼は、視線を逸らしたまま、低く言った。
「私たちは、かつてそれを封じた。だが——完全ではなかった」
「…私には守りたい者がいた」
その声は、世に名を轟かせた皇帝のものではなかった。
ただの、一人の男の声だった。
「彼女は、誰よりも強く、誰よりも優しかった。そして、この帝国を誰よりも愛していた。そして、彼女は……自分を犠牲にすることを、躊躇わなかった」
「…止めなかったのですか?」
胸が、痛む。
なぜか、自分のことのようの感じられる。
「もちろん……止めた。何度もだ。だが……心のどこかで、甘えていた」
静かな自嘲。
「彼女といつまでも共に居れると。失わない、と。——なんの、根拠もないくせに。私はただ…理解していなかっただけだった」
俺は、何も言えなかった。
「気づいた時には、もう遅かった」
俺の脳裏に浮かぶのはただ1人。
どうして今、君が思い浮かぶのだろう。
君は…また、いなくなるつもりなのか。
エーテリウスは、初めてこちらを見た。
沈黙が落ちる。
「セシル。君は、私と似ている。未来を恐れ、選択を先延ばしにするところが、だ」
エーテリウスは一瞬だけ目を伏せ、それから、はっきりと告げた。
「だが、君は、君にはまだ時間がある。
……後悔は、選ぶものではないのだ。選ばなかった結果、辿り着く場所だ」
「きっと彼女も、私の妻と同じことを考えている。自分が離れれば、皆が救われる、幸せになれると」
息が、詰まる。
苦しい。
俺は、ルアリナのことを何も理解していなかった。
俺の気持ちばかりで、何も。
「だから——」
エーテリウスの声が、わずかに震えた。
「もう時間がない。覚悟を決めろ。彼女はもうすぐ君の元へ来る。そして、行かなければならない場所があるというはずだ」
彼女が来る?
行かなければならない場所がある?
言葉の芯がわからない。
「帝国に、なんらかの危機が訪れるのは、今なのですか…?」
「あぁ、危機は近い。もうすぐで…あいつが動き出す。だからお前に、魔力を託す」
“あいつ”
それは、誰なのだろうか。
その時。
体内に、どこか懐かしい魔力が流れ込んでくる気配がした。
その魔力をどう使うのか、手に取るようにわかる。
「だから、何があっても手放すな。…………私には、もう……できないから」
言葉にできないくらい、深い後悔が、悲しみが、手に取るようにわかる。
周囲の光が、静かに揺らぐ。
光が、ゆっくりと薄れていく。
まるで、朝靄が溶けるように。
エーテリウスの輪郭が、少しずつ曖昧になっていった。
「……待ってください」
思わず、声が漏れる。
だが、彼は首を振る。
「君なら大丈夫だ」
穏やかな声だった。
「私は、ここまでだ」
その瞳に、もう迷いはない。
後悔も、悲しみも、すべてを抱えたまま——それでも、静かに立っている。
「お前は、もう一人で立てる」
「……俺は、あなたのようになるでしょうか?」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
エーテリウスは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、そして微笑った。
「同じ道は歩まない」
断言だった。
「大丈夫だ…君たちなら、大丈夫だ。失うことを、選ぶな」
「逃げるな。信じろ。…自分と、彼女を」
世界が、白に溶けていく。
「共に歩むと決めたのなら……何があっても背を向けるな」
「お前はまだ……思い出せないのだろう?」
最後に、そう言い残して。
次の瞬間、世界が白に染まった。
目を覚ましたとき、胸がひどく痛んでいた。
“思い出せない”?
なんのことだ…。
いや……本当はわかっている。
彼女…ルアリナに会った時からの言い表せない違和感、喪失感。
何かが、あることを。
だが……俺がそれを考えてはならない気がした。
———“後悔は、選ぶものではない”
俺は、拳を握る。
怖くないわけがない。
それでも。
「……後悔だけは、ごめんだ」
この想いだけは、偽物じゃないから。
それだけは、はっきりしていた。
理由は分からない。
だが、自分に課せられた運命から、今から起こる未来から、目を背けてはならないという感覚だけが、異様なほど強かった。
なぜか、何もわからないのに心がすっきりとしている。
「きっと、大丈夫だ」
そして信じる。
自分を。
そして……君を。
「母上、父上、イリス…俺のすべきことがわかりました」
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