10 消えぬ空虚【セシル視点】
「おはようございます、殿下」
「……」
「殿下?」
側近のアランが、不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「……夢を見たんだ」
ぽつりと、呟いた。
「手を伸ばしたのに……何も掴めなかったんだ」
ただそれだけの夢。
けれど、目覚めた今も、胸の奥がひどく締めつけられている。
夢の内容を思い出そうとするたび、何か大切なものがすり抜けていくようで。
掴もうとした指の隙間から、砂のようにこぼれ落ちていくように。
焦燥と虚無だけが、波のように打ち寄せる。
毎日が変わらぬ日々で、何もかもがいつも通りなのに——。
……どこかが、違う。
心のどこかにぽっかりと穴が開いていて、そこに、……とても大切な“何か”がいたはずなのに。
何も思い出せない。
でも、確かにそこに“あった”という感覚だけが、胸に焼き付いている。
笑顔だったか、声だったか。その手の温もりか。
思い出せないくせに、どうしようもなく、失ったとわかる。
そんなはず、ないのに。
でも、どうしても、その穴が埋まらない。
毎朝、目が覚めるたびに残るのは、名もなき哀しみと、深い喪失感だけだった。
「セシルよ。お前にお見合いをしてもらう」
「……は?」
朝食の席で、父上が突然そんなことを口にした。
「お見合い、ですか? 私が?」
「ああ。なぜこの一年間、誰も何も言わなかったのかわからないが……お前はもう婚期だ。
お前の気持ちもわかっている。無理強いはしない。ただ……一度くらいはやってみろ」
「セシル。親としては、あなたが心から愛する人と結ばれてほしい。でも……結婚はあなただけの問題ではないのよ」
母上の言葉は優しくて、どこまでも現実的だった。
そう、俺一人の思いだけで、この人生を決められるわけじゃない。
だから、頷くしかなかった。
「……わかりました」
「では殿下、本日は城下町の視察からです。参りましょう」
アランがいつもの調子で言う。
彼はフュエディー家の次期当主。婚約者は侯爵家の令嬢だったか。
「……ああ」
馬車の窓から、街の風景が流れていく。子どもたちが笑い、大人たちが語らい、老人が日向でうたた寝をしている。
平和な光景だった。
「皆さん元気そうで何よりです。魔物が現れた時はどうなるかと思いましたが、怪我人もなく、本当によかったですね」
「怪我人が……いない……?」
その言葉に、何か引っかかる。
「殿下? 何か問題でも?」
「いや、なんでもない。……お前の婚約者——フローレンス侯爵令嬢に彼女によろしくと伝えてくれ」
「彼女? どなたのことです?」
「え……?」
自分でも、何を言ったのか、わからなかった。
「あれ? 今……俺は“彼女”って言ったか……?」
アランは静かに頷く。
「最近の殿下はおかしいですよ。変なことばっかり呟いて……まさか、頭が……」
「黙れ」
冗談でも、それは笑えなかった。
魔物が現れて以来、何かがおかしい。
いや——おかしいのは……俺の方か?
そして、なぜ今になって急に“婚約”の話が持ち上がったのか。
俺は、結婚など望んでいない。
するつもりもない……。
俺は、窓の外に視線を向ける。
その時——
目が合った。
時間が止まったようだった。
銀色の髪に、深い青の瞳を持つ、ひとりの女性。
彼女は驚いたように目を見開き、それから、すぐに目をそらして歩き去っていった。
「……銀髪に、青い瞳……」
なぜだ。
なぜ、心臓がこんなにも暴れる。
立ち上がらずにはいられなかった。
「殿下!? 危ないです、馬車の中ですよ!」
「アラン! 今、見たか? 銀髪で青い目の女が……!」
「え? 珍しいですね。みてませんし、こんな人が多い場所で見つけられる方がおかしいですよ……。
って、それより座ってください、危険です!」
俺は渋々座り直す。
“こんな人が多い場所で見つけられる方がおかしいですよ”
俺の目には、はっきり見えたのだが……。
その時——。
“セシル様”
——誰かが、俺を呼んだ。
「……っ!」
突然、頭を撃たれたような痛みに襲われる。
「殿下!? 顔色が……熱まである! すぐ城へ戻りましょう!」
女性など、嫌いなはずだ。
嫌いだ。
なのに。
なぜだ。
なぜ、こんなにも苦しいのか。
頭より、胸が痛い。何かを思い出しかけている。
でも、それはもう、触れられないもののようで。
俺を、俺を置いていかないでくれ——。
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