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兄妹の食卓を揺るがす金銭危機と悪魔的制裁劇

「まさ…」

舎人とねりが言いかけた瞬間、


**ビリッ!**


リビングの空気が、羽衣(はごろも)から迸る凄まじい気配で震えた。|舎人は巨大な蛇に睨まれた蛙のように、完全に身動きが取れなくなった。全身の毛穴が閉じ、鳥肌が立つ感覚。羽衣の背後に黒いオーラが立ち込めているような錯覚さえ覚えた。


「愚かなお兄ちゃんよ~」

羽衣の声が、低く、粘っこく舎人の耳元に這い寄ってくる。ゆっくりと立ち上がり、舎人に覆いかぶさるように近づく。物理的な距離と心理的な圧迫感。

「さっきも言ったでしょ? あなたの言い訳やごまかしなんて、この私の目の前ではなんの効果も持たないって」

彼女の細い指が、舎人の胸をトン、トンと軽く、しかし痛いくらいに突く。

「冷凍食品。安い。節約したいんでしょう? わかるわよ、その気持ち。生活費をやりくりする大変さは」

指の動きが止まった。目が真っ直ぐに舎人を見据える。

「でもね…なぜそこまで節約に走るの? お兄ちゃん? 普通に考えて、親が残してくれた生活費は十分にあるはずよね? 固定費を引いても、月に21万は自由に使えるお金があるのに」彼女の計算は冷酷に正確だった。

「さあ…話せ…話せ…話せ…今まで浮かせた金を何に使ったのか…正直に話しなさい…」


羽衣の言葉が、呪文のように舎人の頭蓋骨に直接響き、脳髄を揺さぶる。恐怖と、何とかして許してもらいたいという願いが入り混じり、彼は理性を失った。取るべき最終手段は一つだけだ。生存本能が叫ぶ。


「ごめんなさい!!!」


**ドスッ!**


土下座──。畳のフローリングに膝を打ち付け、両手をぴたりとつき、額を床にこすりつける。舎人は羽衣の足元に平伏した。この姿勢が唯一の逃げ場に思えた。


「これで償います! 本当にごめんなさい! すべて話します!」

彼は震える手で自分のスマホを取り出し、画面のロックを素早く解除し、ある通販サイトの注文確認画面を羽衣の足元に差し出した。画面には、『光の四騎士 ブルーレイBOX 完全生産限定版』の文字。しかし、明らかに異常な点があった。同じ商品が、異なる店舗名とともに、6回もリストアップされているのだ。


「これは?」

羽衣は眉をひそめ、興味深そうに、しかし冷ややかに画面を覗き込んだ。土下座する兄の頭を見下ろす。


「『光の四騎士』のブルーレイBOXだよ! 羽衣も知ってるあの社会現象級の大ヒットアニメの…」


「ふーん」

羽衣の声は相変わらず冷たい。興味はあっても、状況的に許すわけにはいかない。

「で、なぜ同じ『BOX』が六つも注文されてるの? 在庫確保? 破損対策? 友達へのプレゼント? どれもお兄ちゃんらしい…って言いたいけど、友達いないしな」容赦ないツッコミ。


「同じじゃない! 全然違うんだ! これらは兄弟品じゃなく、個性を持った別個のアイテムなんだ!」

土下座したまま、舎人は必死に顔を上げた。額が床で擦れて赤くなっている。しかし、その目には、オタク魂に火がついたような奇妙な熱意と輝きが宿っている。追い詰められて逆に開き直ったのか。

「これはただのBOXじゃない! 各販売店ごとに異なる、超レアでファン垂涎の特典が付いてくる、プレミアム限定版なんだ!」


「…はあ?」羽衣の呆れきった声。しかし、その目にわずかな興味の色が走った。彼女もオタクの端くれだからだ。


「見てくれ! これが証拠だ!」

舎人は指で画面をスクロールさせ、注文詳細を一つ一つ開いて見せた。まるで聖遺物を披露する神官のようだ。

「まずはアバメイトオンラインストアの特典! これは外せない! 主人公カイトの、劇中では見られない私服姿の描き下ろしL判ブロマイド! 超レアポーズだ!」

「次にカーマーズ限定特典! ヒロインルナのシンボルマーク『月輪紋げつりんもん』をかたどった、金属製の超クオリティな缶バッジ! 重みと光沢がたまらん!」

「そしてメタンブッタス独占特典! メカニック担当のジンが愛機『轟天ごうてん』に乗った、超可愛いQ版アクリルキーホルダー! 生産数少ないんだ!」

「アルメイト店舗購入特典のA4クリアファイル! これは全キャラ集合の超豪華イラスト! 壁に貼るのに最高!」

「ソフマッフのネット予約限定コードで貰える、もう一種類のアクリルキーホルダー! これがまた渋い、敵組織のボス『闇雲あんうん』の決戦シーン! 人気投票で急上昇したキャラだ!」

「そして最後にゲーアーズ店舗特典のアクリルコースター! 主人公たちの必殺技『四重光撃しじゅうこうげき』発動シーンの超クールで超精密なデザイン! コーヒーカップの下で輝くんだ!」


舎人の語り口は熱を帯び、早口になっていく。土下座という状況を完全に忘れ、オタクとしての情熱に満ちあふれている。目がキラキラと輝いている。


*****


「つまりだ! 各販売店ごとに特典が全部違う! 一つのBOXで全部の特典を手に入れることなど不可能なんだ! 真のファン、いや、オタクとしてこれは…」

彼は拳を握りしめ、天を仰ぐようなポーズを(土下座の体勢のまま無理やり)取った。

「…全ルート制覇、コンプリートこそが至上の義務だ! 愛がなければできない聖戦だ! わかるか、羽衣!? この熱意、この執念!」彼は叫んだ。


「……………」


長い、重い沈黙が流れた。羽衣は天井を見上げ、深い、深いため息を吐いた。そのため息は、呆れと、ある種の諦め、そしてオタクとしての奇妙な納得感が入り混じっていた。彼女もまた「航空隊これ」の重課金ユーザーだったからだ。


「……なるほど」

羽衣は低く呟いた。そして、ゆっくりと舎人の前にしゃがみ込み、彼の熱意に燃えた目をまっすぐ見た。

「それなら…仕方ないな。私もオタクの端くれ、それも重課金勢だもの。全特典コンプへの渇望…その気持ち…」

彼女は自分のスマホでゲームのガチャ画面をちらりと見てから、戻す。

「…痛いほど、骨の髄までわかるよ」本音が漏れた。


「わかってくれたか!? ありがとう、羽衣!」

舎人の顔に安堵と喜びの色が広がった。土下座からようやく解放されると思った。額の赤みも気にならない。


「ええ、もちろんよ、お兄ちゃん」

羽衣の口元が、またあの不気味で悪魔的な笑みを浮かべた。理解を示したのは、許したわけではなかった。

「その深い愛と執念、そして金銭的犠牲を厭わない姿勢、理解したわ。だからこそ…」


「…だからこそ?」

舎人は期待に胸を膨らませた。これで一件落着か?


「だから、スマホ、返して」

舎人は手を差し出した。


「いいよ」

羽衣は優しい、しかし底知れぬ笑顔でスマホを差し出した。


「…羽衣、手、離して?」

舎人の指がスマホに触れた瞬間、羽衣の指が突然、鉄の枷のように、あるいは液圧プレス機のように彼の手首を捉えた。尋常ではない握力が加わる。


「羽衣? ちょっと…手、離してくれる? 痛いよ…?」

舎人は無理やり笑顔を保とうとしたが、手首に走る激痛で表情が大きく歪む。骨が軋む音が自分でも聞こえる気がした。


「痛いっっっ!? やめろ! 手が折れる! 本気で折れるぞ! 羽衣、離せ! 頼むから離せ! 救急車呼ぶぞ!?」悲鳴にも似た声が上がる。


「折れないわ。力加減はちゃんとわかってるから。プロレスラーじゃないけどね」

羽衣の声は相変わらず低く甘いが、その目は極地の氷のように冷たく、一切の笑いを含んでいない。笑っている口元と、笑っていない目。その不気味なコントラストが舎人の恐怖を限界まで煽る。

「ねえ、お兄ちゃん…」

羽衣の顔がぐっと近づいた。吐息が舎人の汗ばんだ頬にかかる。

「…冷凍食品で妹を騙し続けた罪と、ブルーレイ狂乱で生活費を破綻させかけた罪。この二つの大罪を合わせて、本当にこれで許されると思うの? 私の怒りと失望が、そんな生半可なオタク論理で鎮まると思ってる? この『特典コンプへの愛』という名の免罪符で?」


**ギシリ…!**


(明らかに骨に負荷がかかる軋む音)


「ひいいいっ!?」

舎人は悲鳴にも似た声を上げた。手首に走る激痛と、羽衣の目に浮かぶ薄ら笑いが、彼の思考を完全に停止させた。視界が白く揺らぐ。

(やばい…本気でやばい…! このままじゃ手首がペッちゃんこに…!)


*****


「ねえ、お兄ちゃん、もう分かった?」

羽衣の声が、遠くから聞こえてくるようだった。手首への握力は緩んでいない。

「なぜ私が、ここまで烈火のごとく怒るか。その根本的理由を」


「分かった! 分かったから! ごめん! 本当にごめんなさい! 深く反省してる!」

舎人は必死に叫んだ。涙目になり、鼻水まで出かかっている。

「とりあえず…とりあえず救急車! 手の治療代は俺がなんとかするから! 同人誌売ってでも払う!」生存本能が最優先。


「救急車? それより大事な話があるのよ、お兄ちゃん」

羽衣は首をかしげた。まるで救急車などどうでもいいと言わんばかりに。彼女の目が、真っ白く剥かれたように見えた。理性の光が消えている。

「私たちの生活費。毎月、いくらだと思う? 正確に言ってみて」尋問が続く。


「え? だ、だいたい…36万円くらい…?」舎人は恐怖で記憶がおぼろげだった。頭が真っ白。


「そう。家賃12万、光熱費2万、通信費1万5千、保険料2万、その他固定費で5万…合計約22万5千円の固定費を引くと、だいたい13万5千円が食費とか雑費とか、自由に使えるお金よね」

羽衣の暗算は冷酷に正確で速い。彼女は家計簿アプリを完璧に管理していた。

「で、お兄ちゃん。今回の『光の四騎士』全ルートコンプリート作戦。総額、いくらかかった? 送料、手数料込みで」目がさらに鋭くなる。


「えっと…」

舎人は目を泳がせた。言いたくなかった。言えば死ぬと直感した。


「さっさと話せ。正直に」

羽衣の握力が、ほんの少しだけ、しかし確実に強くなった。警告だ。


「ひっ! は、はい…! 一つのBOXが定価9800円で、それが六つだから…58800円…それにアニメイトは送料550円、ゲーマーズは手数料300円で…ソフマップはクレジット手数料が…だいたい…7万円くらい…」絞り出すような、かすれた声だった。額の汗がポタリと床に落ちた。


「七万円…?」

羽衣の声が、一瞬止まった。その沈黙が、かえって不気味で重かった。リビングの空気が張り詰める。

そして──

「バカお兄ちゃん!!!!」

怒号が爆発した。羽衣の声は雷鳴のようにリビングを揺るがした。

「まだ七月の上旬だよ! 上旬で、もう七万円も趣味に突っ込むなんて、頭おかしいんじゃないの!? 脳みそ豆腐かよ!?」

彼女は舎人の手首を揺さぶりながら叫ぶ。

「今月の残り三週間、どうするつもり!? 毎日乾燥もやしと白米だけで生き延びる気か!? 栄養失調で倒れるまで我慢するの!? この無計画極まれりなバカ!!!」彼女の罵声は止まらない。


「お、おおげさじゃないか!?」

舎人は恐怖に震えながらも、わずかな反論の機会を逃さなかった。

「確かに、ちょっと…いや、かなり使いすぎかもしれないけど…毎日もやしってのは極端だろ! 安い鶏むね肉とか豆腐とか、キャベツの外葉とかで工夫すれば…」貧乏料理の知識をひけらかす。


「生活費がきついなら、安い外食チェーン店で済ませればいいじゃん!」

舎人は思わず本音が出た。自分だけなら我慢できるというエゴ。

「牛丼屋の並盛り290円とか、立ち食いうどんのカップうどん持ち込み(スープだけ注文)とか、ファミレスで水だけおかわりしまくるとか…節約テクはいくらでも…」


「ヤダ」

羽衣の拒否は即座で、断固としていた。声に迷いがない。


「拒否が早すぎだろ! 羽衣、わがままは良くないぞ! 節約時はみんな我慢するんだ! 俺だって同人誌我慢するからさ!」舎人は逆に説教する口調になった。図々しい限りだ。


「誰がわがままだよ!」

羽衣の目がさらに吊り上がり、目尻が切れそうになった。

「お兄ちゃんの無謀な浪費のツケを、私の食生活と健康で払えって言うの? ふざけんなよ! 私の肌と髪はプロテインとビタミンで保たれてるんだから!」彼女は自分の頬をぽんと叩いた。


「ねえ、お兄ちゃん」

羽衣の声が突然、異様に落ち着いた。それが逆に底知れぬ恐怖を感じさせる。

「…もしかして、全然反省してないんじゃない? 私の怒りが、単なる金銭的な問題だけだと思ってる? 私がケチって怒ってるだけだと?」その瞳の奥に、本当の怒りが見えた。


「!!!違う!! 深く反省している! 心の底から!」

舎人は土下座から必死に顔を上げ、羽衣を真剣な眼差しで見据えた。目に大粒の涙を浮かべ(若干無理やり出した感あり)、心からの反省を訴えかけているふりをした。

「もう二度としない! 冷凍食品でごまかさない! 高額な全特典コンプも控える! 誓う! 神に誓う!」右手を天にかざすパフォーマンス。


「…まあ、いいわ」

羽衣は深い、深いため息をついた。そのため息は、本物の疲れと諦めを感じさせた。握っていた舎人の手首を、パッと離した。舎人は思わず擦られた手首をさすった。

「どうしようもないバカお兄ちゃんに、もう料理の上達も、金銭感覚の改善も期待しない」

彼女は自分のスマホを手に取り、素早く操作を始めた。連絡先アプリを開く動作だ。

「…輝夜(かぐや)おばさんに、正直にすべてを話して、今月と来月の生活費を少し増やしてもらうわ。全くもう、お兄ちゃんは無計画すぎるんだから。おばさんなら、きっと厳しくも愛情ある指導をしてくれるはず」口元に含み笑いを浮かべる。


*****


「羽衣…今なんて?」

舎人は手首をさすりながら、背筋に凍りつくような不吉な予感に震えた。『輝夜おばさん』の名前に、心臓がバクバク鳴る。


「生活費を少し増やしてもらうの。今月足りない分の補填と、来月分の足しに、あとお兄ちゃんの無駄遣い防止のための監視カメラ設置費かな」羽衣は淡々と、しかし確実に説明した。


「誰に?」舎人は震える声で聞き返した。答えを知りたくて仕方なかった。


「輝夜おばさんに。もちろん。今から電話するわ」羽衣は即答した。親戚の中で最も恐ろしく、かつ舎人の弱点を握る人物だ。


「やめて!!!!」

舎人は絶叫した。文字通り、羽衣の足にすがりつくように飛びつき、その細い足首を抱きしめた。

「お願い! 頼む! 輝夜おばさんだけはやめてくれ! 殺される! 本当に殺される! 社会的に抹殺される!」恐怖で顔が青ざめる。


「ちょっとお兄ちゃん、足を掴まないで。足フェチかよ、変態」

羽衣は眉をひそめ、嫌そうな顔をしたが、足を引っ込めはしなかった。


「違う!!!とにかく輝夜おばさんに言わないで! あのおばさん、俺に対しては鬼畜以下なんだよ! 絶対に許さない! 下手すりゃバラバラにされて東京湾の水深500m地点にコンクリート詰めで沈められる!」舎人は大げさに過去のトラウマを叫ぶ。


「おおげさだよ。輝夜おばさんは合理的で公正な人よ」

羽衣は鼻で笑った。彼女は輝夜おばさんに可愛がられていた。

「ちゃんと理由を説明して、深く反省してるって伝えれば、きっと理解してくれるわ。増額分はお兄ちゃんの小遣いから毎月少しずつ返済するとか、家事全般を一年間請け負うとか、現実的な返済計画を約束すればね」彼女はあえて現実的な解決策を提示する。


「お前だけだろ、輝夜おばさんに優しくされるのは! お前は天使扱いでも、俺は悪魔の落とし子扱いなんだよ!」

舎人は必死に訴えた。恐怖で声が裏返る。

「俺に対しては鬼なんだ! 特に金銭トラブルは最大の地雷なんだ! 前回、中学生の時、サラ金に手を出しかけたってバレた時は、三日三晩も正座で説教されて、挙句の果てに一ヶ月小遣いゼロ、ネット回線切断、携帯はガラケー強制だったんだぞ! 今回は趣味のブルーレイに7万だよ!? 確実に殺される! お願い…泣いてでも詫びるから…土下座でも何でもするから…!」彼は本当に嗚咽を漏らし始めた。恐怖と後悔で、大の大人が子供のように泣きじゃくっている。


「……」

羽衣は俯いたままの舎人をしばらく見下ろしていた。その震える背中を見つめながら、小悪魔のような、しかしどこか満足げな笑みが再び唇に浮かんだ。

「…そこまで言うなら、わかったよ」

彼女の声が、突然、驚くほど優しく、柔らかくなった。

「輝夜おばさんにチクらないでいてもいいよ。今回だけは特別ね」


「ほ、本当か!? ありがとう! 羽衣! 天使だ!」

舎人は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。希望の光が差し込んだ。


「ただし、約束して。絶対に守るって約束して」

羽衣は人差し指を立てた。その指が契約の証のように見えた。


「約束? な、なんだ? 借金は返す…もちろん返す…」舎人は警戒しながらも前のめりになる。


「大丈夫、別に無理なことじゃないから。お兄ちゃんにもできることよ」

羽衣の笑みが深くなる。悪魔が契約書にサインを求める時の笑みだ。

「お兄ちゃんが命の次に大事なあの『光の四騎士』のブルーレイBOX…」

彼女は舎人の耳元に唇を寄せ、悪魔のささやきのように、甘く危険な声で囁いた。

「…私にも、同じものを六つ、買って? 全く同じセットでね」


「え…?」

舎人は一瞬、脳が理解を拒否した。耳を疑った。

「お前も欲しい? でも…生活費、それどころじゃないだろ今…? それに同じもの買っても意味ないじゃん…」混乱している。


「バカ」

羽衣はぽんと舎人の頭を軽く、しかし侮蔑を込めて叩いた。

「もちろん、生活費からじゃないわよ。そんなことしたら、本当に輝夜おばさんに通報するしかなくなるでしょ?」彼女の目が鋭く光る。

「お兄ちゃんが、こっそりコツコツ貯めてる『あのお金』で買うのよ。『聖戦』のための資金でしょ?」


「貯まってるお金…?」

舎人は完全に白紙状態だった。頭が真っ白。


「とぼけても無駄よ。バレてるんだから潔く認めな」

羽衣の目がさらに鋭くなり、舎人の心の内を見透かすようだった。

「お兄ちゃんの部屋の、本棚の一番奥の段。あの分厚い『航空隊これくしょん 超全集 完全版』の、さらに奥。あの分厚い茶封筒。中身は…コミックマーケット用に必死で貯めた同人誌購入資金でしょ? 十万円くらい、きっちり札束で入ってたわね」彼女は具体的に場所と金額を言い当てた。


「!!!」

舎人は完全に凍りついた。まるで心臓を鷲掴みにされ、氷の杭を打ち込まれたような衝撃。顔面が一瞬で血の気を失う。

「な…なんで知ってるの…?! 誰にも言ってない…場所も誰も…まさか盗聴器…?」恐怖と驚愕で声が震える。


「ふふ、お兄ちゃんのこと、私が何もかも知らないと思う?」

羽衣は得意げに鼻を鳴らし、いたずらっぽくウインクした。

「妹の掃除力、舐めてたでしょ? 埃まみれの画集の山をどかしたら、偶然見つけちゃっただけだけどね。結構な額が眠ってたわ。『聖戦』への熱意、伝わったよ?」彼女は嘲笑を込めて「聖戦」という言葉を繰り返した。


「でも…これは俺の…コミケの…軍資金…命…」

舎人は呻くように言った。夢にまで見た、あの超レア同人誌の数々(特に限定500部のあのサークルの新刊)が脳裏を鮮明によぎる。喉が詰まる。


「嫌なら、無理強いはしないよ。お兄ちゃんの意志を尊重するわ」

羽衣はサッと自分のスマホを取り出し、輝夜おばさんの連絡先の画面を開いた。名前の横には、威圧的な和服姿のプロフィール画像が表示されている。彼女はわざとらしく通話ボタンの上に指をかざした。

「今から輝夜おばさんに、お兄ちゃんの冷凍食品詐欺とブルーレイ浪費の全貌を、事細かに、感情を込めて報告しちゃおうかな…『舎人くんがまた…』って感じでね」彼女は芝居がかった悲しげな声を出した。


「お…おどしてるのか!? 羽衣! それは卑怯だぞ!」

舎人は青ざめ、声を詰まらせた。絶望的な状況。


「人聞きが悪いなあ」

羽衣はいたずらっぽく舌を出した。

「選択の自由をあげてるだけ。元々はお兄ちゃんが、冷凍食品で私を騙して、その浮いた金で趣味に散財したのが悪いんでしょ? そのツケをどう支払うか、選ばせてあげてるのよ」

彼女は二つの選択肢を指さし、はっきりと宣言した。

「さて、どっちがいい? A:輝夜おばさんの鬼説教&生活監視強化&小遣い没収コース(期間未定)? それとも…B:私に『光の四騎士』ブルーレイBOX六つプレゼントコース(支払いは同人誌資金)? さあ、選べ。今すぐに」


「……………わ…わかった…」

舎人は深い深いため息をつき、肩をがっくりと落とした。全身の力が抜け、脱力感に包まれるのを感じた。戦いの終焉だった。

「…ブルーレイ…買ってやる…同人誌資金で…」声は虚ろだった。コミケの夢が、パァーッと消えていく音が聞こえた。


「賢い選択ね、お兄ちゃん。合理的で効率的な判断だ」

羽衣の笑顔が、ようやく本物の、心からの笑顔のように見えた。しかし、舎人には悪魔が契約を手中にした勝利の微笑にしか映らない。

「よし、一件落着! そろそろ八時だし、お腹ぺこぺこすぎて前貼って後ろ貼ってるわ」

羽衣は軽やかにスマホを操作し始めた。デリバリーアプリを起動する動作だ。

「デリバリーを頼もう。ピザ? 寿司? 中華? 焼肉弁当? 何がいい? 今日はお兄ちゃんの『改心』を祝って、ちょっとリッチにいこうか」彼女の機嫌は明らかに良かった。


「ああ…どれでもいいよ…お前に任せる…」

舎人は虚脱感に包まれ、壁にもたれかかったまま呆然としていた。魂が抜けたようだ。コミケの幻影が脳裏を去っていく。


「もちろん」

羽衣はにっこりと、最高の笑顔で付け加えた。

「お兄ちゃんのお金でね。同人誌資金の残りで。三万くらいのコースでいいかな?」彼女は高級寿司屋のデリバリーメニューを開いている。


「……わかった」

舎人は諦めたように目を閉じた。そして、ふと、全てを悟ったような、あるいは全てを放棄したような気持ちで口を開いた。

「俺のお金…全部お前に捧げる…すべてを…俺の全てを…」それは敗北の宣言であり、降伏の白旗だった。


羽衣はその言葉に一瞬驚いたように目を見開いた。そして、心の底から楽しそうな、満足げな笑みを浮かべた。彼女が舎人の頭をぎゅっと抱きしめる。その腕の力は、今度は驚くほど優しく、どこか慈愛に満ちていた。

「愛してるよ、バカで無計画で、でもそういうところが憎めない、私のバカお兄ちゃん」


リビングには再び、テレビのバラエティ番組の空虚な笑い声が流れ始めた。窓の外の街灯の光は、相変わらずぼんやりとオレンジ色に輝き、夜の闇を照らしていた。しかし、舎人と羽衣の間には、冷凍食品の偽装とブルーレイの借金、そして同人誌資金の消滅という、深くて複雑な絆が新たに刻まれたのだった。羽衣がスマホで高級寿司の盛り合わせを注文する軽やかなタップ音と、舎人が自分の財布の空っぽさと失われたコミケの夢を噛みしめる重い沈黙が、奇妙なハーモニーを奏でていた。今夜の食卓は、例え高級寿司のデリバリーでも、舎人にとっては灰を味わうような、しかしどこか諦めの境地に達した重い空気に包まれそうだった。羽衣の鼻歌が、舎人の深い心の傷にじわじわと染み入りながらも、奇妙な兄妹の絆を確かなものにしていく。冷蔵庫の冷凍庫は、今夜は静かに閉ざされたままだった。

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