教員室の茶番劇と妖精のような転校生
羽衣が教員室の重いドアを押し開けると、鉛筆の走る音とコピー機の低い唸り、かすかなコーヒーの香りが漂う空間が広がった。窓から差し込む午後の斜光が、机の上に積まれたプリントの山に金色の縁取りを施している。「生徒会提出物」と手書きのラベルが貼られたプラスチックのトレイを見つけると、彼女は抱えていた分厚いレポートの束を慎重に降ろした。紙の束がトレイの底に沈む鈍い音が、一時的に室内の雑音をかき消した。
その瞬間、まるで計算されたかのように、羽衣の背後から甘ったるく、少し粘り気を帯びた声が滑り込んできた。
「あら~?大島ちゃ~ん?今日は珍しいわね。市原ちゃ~んは~?」
振り向くと、窓際のソファにだらりと腰掛けている担当教師、千本木美琴がいた。片頬を手のひらに預け、長い睫毛の下から羽衣をじっと見つめながら、口元に含み笑いを浮かべている。彼女は学内で「学園一の美人教師」と密かに呼ばれていた。自称二十五歳(しかし職員室のふるかぶたちは意味深な微笑を浮かべる)。その評価は決して誇張ではなかった——艶やかなウェーブがかかった漆黒のロングヘアは光を反射し、プロフェッショナルな手際で施されたメイクは顔立ちの魅力を完璧に引き立て、教師用スーツの下からも伺えるバランスの取れたスタイルは、確かに教室でも廊下でも生徒たちの視線を集めてやまない。
「マダラ先輩は、急遽ドッジボール部の練習試合の応援に行きました。対抗校が強豪らしく、人数が足りないとかで。代わりに私が提出に来た次第です」
「まぁ、そっか~。あの子、ホントにスポーツなんでもこなすんだからね~、感心しちゃう」美琴は少し大げさなため息を漏らし、手に持っていた白い陶器のコーヒーカップを傾けた。カップの縁に残ったわずかな液体は、光の中で濃い琥珀色に輝いているように見えた。
「相手校の子たち、可哀想にな~。だってあの市原マダラよ?覚えてる?去年のバスケ部の交流戦、あの子のディフェンスに押し潰された相手校の男子、三人もベンチで嗚咽してたんだから。体育館中がシーンとなっちゃって」
羽衣は苦笑を浮かべながら、提出トレイの周りに散らばった他の書類を整え始めた。しかし、次の瞬間、彼女の左腕がぐいっと強く引かれるのを感じた。
「ちょっと待ってよ大島!提出終わったら、そのまま帰るんでしょ~?ねえ、付き合ってよ~!先生、今すっごく話し相手が欲しいの!」
「え、いえ…先生、誠に申し訳ないですが、私も課題が山のように溜まっておりまして…特に古典の文法問題集が…」
「うぅ~ん…」美琴の潤んだ大きな瞳が、見る見るうちに水気を帯び、瞬きをするたびに長い睫毛が濡れて重たげに見えた。「大島も…先生を見捨てるの~?先生のこと、嫌いになっちゃった?」
(きた…!)羽衣の心の中で警報が鳴り響いた。(千本木先生の必殺奥義・酒グセ付き泣き落とし…!)
警戒の念を全身に漲らせながらも、渋々ソファの端に腰を下ろす羽衣。美琴は隙を見せず、すっと羽衣の隣にぴったりと寄り添った。その動きと同時に、甘く濃厚で、ほんのりスパイシーな高級香水の香りが羽衣の鼻腔を優しく包んだ。
「実はね…」と、美琴は突然、さっきまでの甘えた口調を捨て、真剣な——というよりむしろ深刻な表情に変わり、声のトーンも沈んだ。「昨日、友達に誘われて行った合コンで…見事にフラれちゃったの」
「今月に入っても三回目ですよ」
美琴はカップを少し強くソファ横の小テーブルに置いた。その衝撃でカップの中の液体が揺れ、確かにコーヒーには見えない濃い琥珀色が一瞬垣間見えた。
「だって今回は絶対イケると思ったんだもん…相手は大手総合商社の将来有望なエリート社員で、プロフィール写真より断然、いや、十倍はイケメンで、話も面白くて…」
羽衣が思わず「はあ…」と呆れたため息ともつかない微かな息を吐き、眉の内側をほんの少しだけ持ち上げると、
「ちょっと待ちなさい!今、とてつもなく失礼なこと考えたでしょ!?『またかよ』とか『自業自得』とか、そういう類の!」
「とんでもございません」羽衣は即座に顔の筋肉を完全にニュートラルな状態に戻し、口元には社交界のエリートも真っ青の、いわゆる「外交官スマイル」を浮かべた。瞳の奥の感情は完璧にシャットアウトされている。
「あら?さっきまで呆れて白目むきかけてたような気がしたけど、気のせいかしら?」
美琴は不信そうに細めた目をさらに細め、羽衣の顔にぐっと接近した。吐息がほのかにアルコールの香りを帯びている。
「幻覚かと存じます」羽衣は微動だにせず、完璧なアイコンタクトを保ちながら、無垢な微笑みを崩さない。その鋼の意志とも言える平静さに、逆に美琴の方がたじろぎ、わずかに後ずさった。
「もういいわ…それより、聞いてよ大島!」美琴はカップを手に取り、中身を一口含みながら、まるで次の授業の構想を練るような真剣な面持ちで言った。「いい男、先生に紹介してくれない?条件はね…医者か弁護士、できれば大手企業の管理職でもいいわ。年収は…生活の質を考えて、800万以上が理想なんだけど…」
「それは先生…私のような一介の生徒に叶うことでは…」羽衣がそっと立ち上がり、その場を離れようとしたまさにその瞬間、
「ぎゅ~~~っ!」
美琴が突然、バネ仕掛けのように羽衣の腰に飛びつき、両腕で強く抱きしめた。その衝撃で、彼女の上質なウールのスーツジャケットの胸元のボタンが一つ、危うく弾け飛びそうになった。
「先生!パーソナルスペースを確保してください!これはハラスメントになりかねません!」
「だって~!先生、結婚したいんだもん!早く結婚したいのよ!」美琴の声は半ば泣き声に近かった。「大島はまだ十代で若いからわからないでしょ?夜中に、冷え切った布団の中で、テレビの明かりだけを頼りに一人でお酒を啜るあの胸の奥がギュッと締め付けられるような悲しさが!」
(毎晩『ラムネ』とやらの横で、ストレートの芋焼酎を湯呑みでガブガブ飲んでるくせに…)と心の中で冷ややかにツッコミながらも、羽衣は平静を装って言った。
「先生、結婚しなくとも自由に使えるお金もありますし、束縛されない自分の時間もたっぷりあるじゃないですか…」
「それってね!」美琴が突然、羽衣の腕を離し、背筋をピンと伸ばした。その目つきは一瞬、選挙演説台に立つ政治家のように鋭く、確信に満ちていた。「寂しさの単なる言い訳よ!女性にとっての真の幸せは、温かな家庭にこそ存在するの!理想は…子供が二人、庭付きの一戸建てに住んで、ワンちゃんを一匹飼うこと…」
そのあまりにも強烈な「家庭円満オーラ」と、突然の説教モードに、羽衣は思わず押し負け、「は、はい…おっしゃる通りかと…」と小さく頷いてしまった。
「でしょ!?だからお願い!頼むわ、大島!紹介して!条件はしっかりまとめておいたから!」美琴はスマホをサッと取り出し、画面をパッと羽衣の目の前に突き出した。
> **◆理想のパートナー条件◆**
> ▶ 年齢:25~35歳(自称年齢±5歳の範囲)
> ▶ 既婚歴:絶対ナシ(バツイチは論外)
> ▶ アルコール嗜好者(特にウイスキーor焼酎が好ましい ※最重要項目)
> ▶ 猫アレルギーNG(愛猫ラムネと同居必須のため)
> ▶ 収入:安定かつ将来性あり(前述の通り年収800万以上が望ましい)
> ※ 外見は好みのタイプなら柔軟に対応可
「あ、北欧人でも全然アリよ!」美琴は夢見るような目をして付け加えた。「アイスランドとかノルウェーの男性!たくましくて男らしそうだし、寒い国のお酒もきっと強いはず…」
その瞬間、天井のスピーカーから、事務的な女性のアナウンスが教員室全体に響き渡った。
《ピンポンパンポーン》
「お知らせいたします。本日予定されております教職員全体会議を、予定より早め、約10分後に第2会議室にて開始いたします。関係各位は、お早めにお越しください」
「あっ!しまった!飲んでる場合じゃなかったわ!」
美琴はパッと羽衣の腕から離れ、弾かれるようにソファから立ち上がった。すると、ついさっきまでベタベタと甘え、泣き落としをかけていた酔態がまるで嘘のように消え去った。背筋は伸び、瞳の濁りは一瞬で晴れ、鋭い眼光に変わる。乱れた髪を素早く整え、スーツジャケットの襟をピンと正し、カップの残りを一気に流し込むと、エチケット用のミントタブレットを口に放り込んだ。その変貌ぶりは、まさにプロフェッショナルの鏡であった。
「大島、今日は話聞いてくれてありがとね~」カチッとハイヒールの踵を鳴らし、颯爽と振り返った美琴は、羽衣にウインクを一つ投げつけた。「では、大島気をつけて帰ってね」
ウォーカー姿で教員室を後にするその後ろ姿は、迷いもなく、学園一の美人教師の名にふさわしい、誇りと切れ味を兼ね備えた「プロフェッショナル」そのものだった。羽衣は呆然とソファに残され、ほのかに漂う甘い香水と、わずかに残るアルコールの匂いの中、現実と非現実の狭間で揺れる奇妙な脱力感に包まれた。トレイに置かれた重いレポートの束が、今は妙に軽いものに思えた。
* * * *
教員室のドアを背にした羽衣は、ようやく解放感に肩の力を抜いた。レポートの山を提出し終えた安堵感と、千本木先生の結婚相談に付き合わされた疲労感が入り混じっている。長い廊下を歩きながら、夕暮れに染まる窓ガラスを見上げると、オレンジ色の光が校舎に柔らかな影を落としていた。
「はぁ…やっと帰れる…」
そんな安堵も束の間、ふと耳を澄ますと、どこからか微かなピアノの調べが聞こえてきた。
(ポロンポロン…ロンドンロンドン…)
(ピアノの音? 誰が弾いているんだろう…吹奏楽部今日は活動がないはずなのに)
(軽音楽部は…ピアノなんて使わないよな? まさか生徒が無断で…)
副会長としての義務感がムクムクと頭をもたげる。校則違反は見過ごせない。音のする方向へ足を向けると、次第にクリアになる旋律は明らかに音楽室から流れてきた。
そっとドアを開けると、そこには想像を超える光景が広がっていた。
夕陽に照らされた音楽室の中央。一台の黒艶のグランドピアノの前に、一人の少女が腰かけている。腰まで届く銀色の長髪は窓から差し込む光を浴びて、まるで液体プラチナのように輝いていた。小柄ながらも均整の取れた肢体が、制服ではない淡いパステルカラーのワンピースに包まれている。
(……妖精?)
指が鍵盤の上を滑るたびに紡ぎ出される旋律は、どこか懐かしく、それでいてこの世のものとは思えないほど清冽だった。少女の横顔は彫刻のように整い、長い睫毛が頬に落とす影が神秘的ですらある。
(この子…人間離れした美しさだ。ハーフ? それとも本当に森の精霊が迷い込んだのか?)
羽衣は完全に足を止め、息をのんだ。校則違反を注意しに来たことなど、頭の隅から消え去っている。彼女の意識は、眼前の「美の結晶」と、耳を満たすピアノの調べに完全に支配されていた。無意識のうちに、口元が緩み、危険な笑みが浮かんでいることにさえ気づいていなかった。
演奏が終わり、余韻が音楽室にゆったりと広がった瞬間──
少女がゆっくりと振り向いた。
「!」
思わず羽衣が声を上げそうになる。振り向いた顔は予想以上に精緻で、透き通るような白磁の肌に、雪原を思わせる真っ白な瞳。その目は吸い込まれるような深淵を持っていた。
「あ、あの…」少女が口を開こうとしたその刹那、羽衣は我に返った。素早く表情を整え、副会長らしい落ち着いた口調で切り込む。
「失礼ですが、どなたですか? 本校の生徒では…ないようですね」
目線が少女の服装に走る。確かに私服だ。校内への無断立ち入りは明らかな規則違反である。
「Halló, góðan daginn. Hvað er að?(こんにちは、どうしました?)」
「……え?」
(な、なにこの言語…? 北欧系…? アイスランド語?)
羽衣の頭が一瞬フリーズしたが、すぐに切り替えた。国際色豊かな高松学園の副会長として、英語で対応しよう。
「Excuse me, may I ask who you are? You don't seem to be a student here...」
「あっ! Um, undskyld!(すみません!)」少女は慌てて手を振った。「つい母国語が出て…日本語話せます! ピアノに夢中になってしまって…」
ほっと胸を撫で下ろす羽衣。日本語が通じるなら事は早い。
「では改めて。貴女は誰ですか? 無断で音楽室に入るのは校則違反ですよ」
「そ、それは…」銀髪の少女はうつむきながら指をもじもじさせた。「実は…来週から転入する予定の者です。今日は事務手続きに来たのですが、校舎が広すぎて迷子になって…ピアノを見つけて思わず触れてしまい…本当に申し訳ありません」
詫びるように頭を下げようとする少女を、羽衣は優しく制した。
「いいんですよ、顔を上げて。それに…」ふと笑みが零れる。「とても上手でした。心に染み入る演奏でした」
「ありがとうございます…!」少女の顔に安堵の色が広がる。
「今日は土曜日ですから職員の数も少ない。もしよければ教員室まで案内しましょうか? 転入手続きを担当の先生にお願いします」
「お願いしても…よろしいですか? ご迷惑では…」
「全く問題ありません。あ、失礼、まだ自己紹介していませんでしたね」羽衣は軽く会釈した。「私は高松学園 生徒会副会長の大島羽衣と申します」
「私はシャクラ・アルテミスドッティル|《shakura artemis dóttir》と申します」少女は深々とお辞儀をした。「父がアイスランド人、母が日本人のハーフです。どうぞよろしくお願いいたします」
(なるほど…アイスランドと日本のハーフか。道理でこの世のものと思えない美しさだ。北欧の彫りの深さと、日本の可憐さが見事に融合している…)
「では、教員室へご案内しますね」
「はい、お手数おかけします、大島さん…」
二人で廊下を歩きながら、羽衣は自然な会話を心がけた。
「アルテミスドッティルさん…でよろしいですか? 少し長いので、お名前で呼んでも?」
「ええ、もちろんです! シャクラと呼んでください」
「シャクラさんは15歳ですよね? 私と同い年みたいですね。敬語使わなくて大丈夫ですよ」
「え? そうなんですか?」シャクラは羽衣を驚いたように見つめた。「お話しぶりもお姿もとても大人びていらしたので、先輩かと思って…」
「はは、よく言われます」羽衣は軽く笑った。「だからタメ口でいいんです。それにしてもシャクラさんの日本語、とてもお上手ですね。どこで勉強されたんですか?」
「いえいえ…話すのはなんとかですが」シャクラは照れくさそうに頬を掻いた。「書くこと、特に漢字が苦手で…それに敬語もすごく難しいです。さっきも失敗しましたよね?」
「気にしないで! 敬語なんて日本人でもよく間違えますよ」羽衣はウィンクした。「尊敬語と謙譲語の違いとか、私も時々混乱しますし。漢字は練習あるのみです!」
「そうですね…苦手なことは努力で克服するしかありません」シャクラは真剣な眼差しで言った。「『Æfa svíkir ekki』練習は裏切らないと祖母がいつも言っていました」
(しっかりした子だな…アイスランドの教育は厳しいのかしら?)
「素晴らしいお考えですね。ところでピアノは? あの演奏、本当にプロ級でしたよ」
「子供の頃から習ってはいますが…趣味の範囲です。大したことありません」
「そんなことない! ホールでリサイタルが開けそうな腕前ですよ!」
「お褒めいただき光栄です…」
「あ、そういえばシャクラさんは幼少期をアイスランドで過ごされたんですよね? いつ日本に?」
「はい、6歳までレイキャビクで育ち、小学校は日本の公立校に通いました」シャクラの目が遠くを見つめる。「中学1年で再びアイスランドに戻り、今回3年ぶりの日本帰還です」
「それは大変でしたね…二つの文化を行き来するって」
「慣れましたので…」彼女はかすかに微笑んだ。
その時、羽衣には聞こえないほど小さな呟きがシャクラの唇から零れた。
「Ég vil ekki venjast því lengur…」
教員室のドアが見えてきた。
「到着です。こちらが教員室になります」
「ご案内ありがとうございました、大島さん。本当に助かりました」
「手続きが終わるまで待ちましょうか? 結構時間かかるかもしれませんし」
「大丈夫です! もう十分お世話になりました」そう言うと、シャクラは突然近づき──
(ちゅっ)
「ひゃっ!?」
羽衣の左頬に柔らかな感触がふれた。一瞬で全身の血が頭に上るのを感じた。
「し、シャクラさん!? いきなり何を…!?」
「あっ! ごめんなさい!」シャクラは真っ赤になって飛び退いた。「アイスランドでは感謝や親愛の印として頬へのキスは普通なんです! つい癖で…本当に申し訳ありません!」
「い、いいの…気にしないで…」羽衣は顔を覆いながらも指の隙間からシャクラを覗いていた。「じゃ、じゃあね…同じクラスになれるといいね…」
「はい! ぜひお願いします!」シャクラは深々と頭を下げた。「今日は本当にありがとうございました!」
羽衣が小走りに廊下を離れるのを、シャクラは名残惜しそうに見送っていた。角を曲がり、姿が見えなくなった瞬間──羽衣の背筋がぐにゃりと緩んだ。
「フゥ…フゥ…フゥ…」
壁にもたれかかり、肩を震わせる。抑えきれない笑みが顔を歪ませている。
(フヘヘヘ…信じられない…まさかのハーフ美少女遭遇イベント…しかもアイスランド式キスまで…! これは完全にラノベ展開じゃないか!? あの透き通るような肌…吸い込まれそうな白い瞳…腰まで届く銀髪…(*´Д`*) 危なかった…もう少しで変態笑いがバレるとこだった…絶対同じクラスにする…絶対に…フヘヘヘ…帰ったらお兄ちゃんに自慢しよ…あのオタク、羨ましがって卒倒するに決まってる…フヘヘヘヘ…!)
下心全開の痴女顔で校門をくぐる羽衣。夕焼けが彼女の後ろ姿を、どこか禍々しくも輝くシルエットに染めていた。
教員室では、シャクラが書類に記入しながら、担当教員に尋ねた。
「あの…大島羽衣さんは、どのクラスにいらっしゃるんでしょうか?」
「大島か? 2年B組だよ」
「そうですか…」シャクラは俯き、ペンを握る手に力を込めた。
ふと、彼女の唇が微かに動く。アイスランド語のささやきが静かに響いた。
「Hagoromo Oshima er eins og álfur úr ævintýrabók… hún er ekki bara falleg, heldur einnig ótrúlega góðhjartað… Ólíkt mér, hún lítur út fyrir að vera fullorðin kona… Ég vildi óska þess að við gætum orðið náungar…」
その声は、窓から差し込む夕陽に溶けるように消えていった。
* * * *
最寄り駅までのバスを乗り継ぎ、ようやく電車に乗り込んだ羽衣は、ドア付近のスペースにぽつんと立っていた。ラッシュアワーの混雑はまだ始まっておらず、車内は空いていた。
「ふう…長い一日だった…」
そんな時、背後から聞き覚えのある冷静な声がした。
「羽衣、今帰り?」
振り向くと、紺色のブレザー姿の市原マダラが立っていた。少し汗ばんだ額が、彼女が体育館から直接来たことを物語っている。
「マダラ先輩! 試合お疲れ様でした!」
「どうも。…随分遅いじゃない。千本木先生に捕まったのか?」
「は、はは…」羽衣は乾いた笑いを漏らした。
「まあ、いろいろありまして…」
「『いろいろ』には、銀髪の転校生も含まれているようだね」マダラの金色の瞳が鋭く光った。「職員室で少し話を聞いた」
「え!? もう情報が回ってるんですか!?」
「教頭からだ。転入手続きのついでに、『生徒会で面倒を見てくれ』と頼まれた」
「はぁ…さすがマダラ先輩、情報通ですね…」羽衣は呆れつつも感心した。
「それで…あの転校生、どう思います?」
「シャクラ・アルテミスドッティルか」
マダラは窓の外の流れる景色を見ながら言った。「学力テストの結果は極めて優秀。特に語学と芸術科目が突出している。ピアノの経歴も本格的らしい」
ふとマダラが羽衣をまっすぐ見つめる。
「…彼女を生徒会に勧誘しないか、と考えているところだ」
「えっ!?」羽衣は目を見開いた。「マ、マダラ先輩、まさか…」
「人手不足は現実だ」マダラの口調は事務的だった。「彼女なら文書処理や国際交流イベントで即戦力になる。何より…」一瞬、口元が緩んだ。「君が彼女と親しそうだったからな」
「そ、それは…!」
「まあ、まだ具体的な話ではない」マダラは流すように言った。
「転校初日から圧迫面接も酷だろう。時期を見て話そう」
「そうですね…」羽衣はほっと胸を撫で下ろした。
「ところで」羽衣が話題を変える。
「ドッジボールの試合結果、気になるか?」
「もちろんです! どうでした?」
マダラは微かに、しかし確かに誇らしげに微笑んだ。
「問うまでもないだろう。25対3で圧勝だ。相手キャプテンが『魔球が来る』と泣き喚いていたのが少々面倒だったが…所詮は『じゃりごとき』の戯言に過ぎない」
「さすがです…!」羽衣は思わず拍手しそうになった。
その時、車内アナウンスが流れた。
《次は橋山、橋山。お出口は右側です》
「では、ここで」マダラが鞄を持ち直す。「また月曜に」
「はい! お疲れ様でした、マダラ先輩!」
ドアが開き、すっと降りていくマダラの後姿を見送りながら、羽衣は改めてため息をついた。妖精のような転校生との出会い、突然の国際交流(頬キス)、そして生徒会勧誘の話…あまりに濃密な一日の終わりに、電車のゆらめく照明が優しく降り注いでいた。