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兄妹の朝の駆け引きとキス

「ねえお兄ちゃん、今何時?」

枕元から響く甘ったるい声に、舎人とねりはまばたきを繰り返した。瞼の裏にはまだ濃い闇が張り付いている。記憶を手探りで辿る──確かに羽衣がベッドの端で小刻みに揺れながら「起きて起きて〜」と囁いたのは午前4時。あの時、壁掛け時計の蛍光塗料が不気味に浮かび上がっていたのを朧気に覚えている。


(あれから…延々と続いた布団の綱引きか…)

彼は毛布の下で微かに温もる隣の存在を感じながら、脳裏に映像を再生した。羽衣はごろもが冷えた足を彼のふくらはぎに密着させて「あったか〜い」と笑う声。窓の外が漆黒から鈍い鉛色へと移り変わる間、彼女が

「お兄ちゃんの布団は特別な匂いがする」と顔を押し付ける仕草。小鳥のさえずりが微かに聞こえ始めた頃、彼が「もういいだろ」と諦めのため息を漏らすまで、まるで時計の針が蜂蜜に浸かったような異常な時間の流れが続いたのだ。


指でくしゃくしゃと逆立った寝癖をかきながら、舎人は脳内で計算を始めた。

(4時に始まって…明るくなり始めたのは6時前…丸2時間も布団の中で押し問答してたのか?)

愕然とする。羽衣が「お兄ちゃんの隣だと時間の感覚がおかしくなるの」と口にした言葉が、冗談ではなかったことを痛感した。


無意識にこめかみを押さえると、頭蓋骨の内側で鈍い痛みが脈打つ。この「時間泥棒現象」の半分は自分にも責任があると認めざるを得ない。だって妹がひんやりした肌を密着させて潜り込んで来た時、追い出すふりをしながら結局「寒いなら仕方ない」と布団の端をめくってやったのは紛れもない事実なのだ。その瞬間、羽衣の目が猫のように細まり、得逞した笑みを浮かべたのを今も鮮明に覚えている。


「んー…」

顎に手を当てて考え込む素振りを大袈裟に見せた後、ようやく枕元のスマホを手に取る。液晶画面がパッと青白い光を放ち、暗い廊下に彼の影を歪んだ形で投げかけた。数字が視界に飛び込む。

「7時だよ」

「なにィィッ⁉」

羽衣が飛び上がった衝撃で羽毛布団が舞い上がる。バタバタと跳ねるように布団を蹴散らす彼女の肩から、シルクのパジャマの紐が滑り落ち、鎖骨のくぼみが危うく露わになりかける。舎人は咄嗟に目をそらし、指先で紐を元の位置に戻す。肌に触れた一瞬、ほんのり温もった感触が指に残った。

「ヤバイ!今日生徒会の資料整理当番だ〜!遅刻する!」


「ふーん」

舎人は寝転がったまま天井の木目模様を追う。そこには昨年、羽衣が背伸びして届かず、彼が代わりに貼った星形の夜光シールが未だに微かに光を宿していた。「頑張ってね」と棒読みで返す。心の中では(どうせあのカリスマ性で何事も上手く収めるくせに)と呟いていた。


するとベッドが沈み、羽衣が突然乗り込んでくる。冷えた膝が彼の脇腹を圧迫し、両手で彼の頬を掴んだ。指先がまだ寝具の中の温もりを帯びている。

「冷たい!他人事みたいに言わないでよ!」

「他人事でしょ?」舎人は眉をひそめ、羽衣の手首を外そうとするが、彼女の握力が意外に強い。「僕はただの一般生徒だし。高嶺の花である生徒会副会長様の業務に口出しできません」

「そうだけど…!」

羽衣が唇を尖らせ、彼の顔を自分へと引き寄せる。「せめて『羽衣と離れるのは寂しい』って言ってよ!ほんの少しでいいから!」

「そんな恥ずかしい台詞言えるわけないだろ」彼は顔を背け、枕に埋もれた声で応じる。耳朶の辺りが妙に熱いのに気づいた。

「もうっ!ケチ兄ちゃん!」


羽衣が膨れっ面で布団を蹴ると、羽毛がふわふわと舞い上がり、朝日の光の中で黄金の粉のように輝いた。舎人は呆れたように白目をむき、毛布を顔まで引き上げた。

「さっさと支度しなよ。ほら」彼は布団の隙間から指を差し出し、スマホの画面をかざす。「もう予鈴まで45分しかない。アイドルの遅刻は学園の一大事だぞ」

「はーい」

不満げに伸びをした羽衣が、背筋を反らせた。パジャマの裾がめくれ上がり、くびれたウエストのラインが一瞬露わになる。すると彼女は突然、獣のような鋭い笑みを浮かべた。「でも夜は覚悟しててね?今日こそお兄ちゃんの布団に忍び込むから」声が低く甘く変化する。「鍵をかけたって…開ける方法ならいくらでも知ってるんだから?今晩は本当に寝かせないぜ〜」

(まずい…本当に手段を知ってる可能性が高い)

舎人は心の中で青ざめた。先月、彼女がピックを使ってあっさり補助鍵を開けた夜の記憶が蘇る。絶対に新しい防犯対策を講じると誓いを立てると、彼は起き上がり、妹の背中を軽く押した。

「とっとと着替えてこい。そのパジャマ姿でふざけてる場合じゃないだろ」

「はいはい〜」羽衣が跳ねるようにドアへ向かい、振り返って舌を出した。

「鍵、三つくらい増やしといでよ?突破するの楽しみだもん!」

ドアが閉まる音が、奇妙に空虚な響きを残した。


* * * *


「はあ…」

ドアが閉まる音と共に、肺の底から絞り出すような深いため息が漏れた。舎人はそのままベッドの縁にへたり込み、冷えた掌で火照った瞼を押さえた。

(学校のアイドルが家ではブラコンお下劣娘とはな…)

胸の内で繰り返す苛立ちの裏側には、いつも溶けきれない甘ったるい澱が沈んでいた。誰も知らない羽衣の素顔──テストは常に学年トップ、スポーツ万能、入学一年で生徒会副会長に抜擢された才媛が、家では毎朝兄の布団に潜り込むヘビー級のブラコンだ。窓の外でスズメの群れが電線を行き交う。小鳥たちの賑やかなさえずりが、逆説的に部屋の静寂を際立たせる。

(昨日の生徒会報のインタビュー記事なんて…『理想の男性像?礼節をわきまえた紳士的な方です』だって?)

舎人は壁に掛かった制服の上着を睨みつけ、乾いた笑いを零した。

あのインタビューの直後、帰宅した羽衣が「お兄ちゃんのパジャマ、洗濯カゴから拝借〜」と言いながら顔を埋めていた光景が脳裏を掠めた。洗剤の微香が漂う廊下で、彼女が恍惚の表情で袖口を頬ずりする仕草は、もはや紳士的というより変態的の域だった。

(でも…嫌いじゃないんだよな)

この認めたくない感情が歯がゆい。彼は立ち上がり、乱れた布団を蹴散らすように整えた。羽毛布団には二人分の体温が滲み、枕には彼女のリンゴ系シャンプーの匂いがこびりついている。


階段を下りると、リビングのソファに制服姿の羽衣が腰掛け、足をぶらぶらさせていた。彼女の視線が天井の梁を這い、無意識に指先でスカートのプリーツを弄っている様子は、明らかに誰かを待つ仕草だ。

「おはよう兄ちゃん!休みの日なのに早起きだね?えらいえらい」

「だって誰かさんが、朝4時に人を起こしに来るからさ」舎人は流し台に向かいながら答える。水道の蛇口をひねる金属音が、朝の空気を切り裂く。

「誰かな〜?あれれ全然わかんないなあ」羽衣が戯けた声で応じる。ふと彼女が立ち上がり、くるりと回転した。スカートの裾が優雅に広がり、窓から差し込む朝日が透けた生地の向こうに、黒タイツに包まれた細い脚のラインを浮かび上がらせた。「で?どう?今日のコーデ」


舎人は息をのんだ。普段とは別人のような姿──きちんと結ったお嬢様結びは一本の乱れもなく、光沢のある黒タイツは足首のくびれを完璧に強調している。胸元のリボンは左右対称に折られ、結び目の角度まで計算され尽くしていた。そして髪には、舎人が三ヶ月前の誕生日に、三時間もアクセサリーコーナーで逡巡した末に選んだ月形の髪飾りが、慎ましくも確かな存在感で輝いていた。

(…可愛いな)

この直感が脳裏を駆け抜けた瞬間、彼は自らの鼓動が耳朶に響くのを感じた。本心を悟られまいと、舎人はわざと冷蔵庫のドアを開ける動作に身を隠し、震えそうな声を無理に平らに整えて毒を吐いた。

「なんか…太った?」

(しまった!女子に言ってはいけない禁句ランキングTOP3に入る発言だ…しかも嘘すぎる!)


羽衣は一瞬、目を見開いた。その瞳には舎人の姿がくっきりと映っている。彼女の頬がみるみる赤く染まり、口元がへし曲がっていく。

「違うよ〜!」甲高い声がキッチンタイルに跳ね返る。「もっとちゃんと見て!ここ、一番頑張ったんだから!」彼女は足を踏み鳴らし、手に持ったスクールバッグで舎人の背中をポンポンと小気味よいリズムで叩いた。

「しょうがないなあ…」舎人は覚悟を決めて振り向く。「ほら、ここ!」羽衣が指さしたのは煌めくヘアピンだった。彼女の指先が微かに震えている。

「ああ、それすごく似合ってる。どこで買ったの?」

(馬鹿かお前!贈り主が聞く台詞か!?)内心で自分を殴りたくなった。まさか三ヶ月で忘れるほど印象が薄かったのか? あの日、彼女が「お兄ちゃんのセンス、やっぱり最高!」と言って跳びついた重みまで蘇ってくる。


「買った…?」羽衣の声が急にしぼんだ。見上げると、長い睫毛の下に光る液体が溢れんばかりに溜まっている。彼女の目尻がみるみる赤く染まり、鼻先をすする微かな音が響いた。

「ひどい…このピン、お兄ちゃんが誕生日に選んでくれたのに…」

真珠のような涙が一粒、紺色の制服襟に吸い込まれるように落ちた。その染みが広がる様を見た瞬間、舎人の思考が断線した。

「待って!ごめん、うっかり…!」思わず彼は羽衣の肩を掴む。薄いブラウス越しに伝わる体温に、指先が痺れた。

「もういい!兄ちゃんなんて大っ嫌い!」羽衣が鞄を抱え込み、振り払おうと身をよじる。髪飾りが悲しげに揺れた。


「どうすれば許してくれる?」必死に腕を掴み直す舎人。床に落ちた涙の痕跡が、彼の視界の端で光る。すると羽衣がゆっくりと振り返り、涙で濡れた睫毛の隙間から、悪魔のような笑みを浮かべた。涙の跡がまだ頬に光っているのに、口元が危険な曲線を描いている。

「ん〜…じゃあ目を閉じて?」

舎人は喉仏を上下させた。無数の警告ベルが頭蓋骨の中で鳴り響くが、彼はゆっくりと瞼を閉じた。暗闇が訪れ、他の感覚が研ぎ澄まされていく──自分より少し甘い羽衣の呼吸の熱気、制服のウール生地の摩擦音、そして微かに震える彼女の指先が自分の胸板に触れるか触れないかの距離で止まる。


「ちゅっ」

柔らかな感触が左頬にふわりと舞い降りた。桜の花弁より軽く、蒸気より温かく、一瞬で消えていくのに皮膚の奥深くまで浸透する圧倒的な存在感。甘いイチゴリップの香りが鼻腔を満たした。


「えっ…?」舎人は瞼を開いた。視界がぼやけ、焦点が定まらない。羽衣が悪戯っぽくウインクし、人差し指を舎人の呆けた口元に立てる。

「なに?頬への軽いキスでそんな動揺するの?まさか」彼女の声が蜂蜜のように濃厚に垂れる。「もっと深い…本気のキスを期待してた?」

「違う!そ、それは…!」反射的に否定する声が裏返った。耳朶が熔けるように熱い。頬に触れた部分がまるで烙印を押されたように疼いている。

「はい許したー!行ってきま〜す!」

ドアが勢いよく閉まる。玄関に残されたのは、ガラスのように固まった舎人だけだった。彼の指が無意識に触れた左頬には、微かなリップグロスの感触がベタつき、耳の奥には「ちゅっ」という湿り気を帯びた音がループし続けている。廊下の柱時計の針音が、カチ、カチ、と彼の思考の破片を切り刻んでいく。その音は、彼が羽衣の髪飾りを選んだあの午後、宝石店のショーケース越しに聞こえていた秒針の音と、奇妙に重なっていた。


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