兄妹間の深夜の騒動2
「痛っ! ひどいよぉ、お兄ちゃん!」
羽衣は額をグイッと押さえつけられ、涙目をキラキラと輝かせながらベッドの上でぐるりと転がった。柔らかい羽毛布団が彼女の動きに合わせて波打つ。
「百年に一度現れるかどうかの超絶美少女を、こんなに強く叩くなんて! 人でなし! 鬼! 仏の顔も三度までって言うけど、これで今月五回目だよ!」
「うるさいな、ほんとに。」
舎人は即座に、しかしどこか慣れたような諦め混じりの口調で返した。彼は眉間にしわを寄せ、ベッドの端に腰を下ろしている。
「ほんとに百年に一度の美少女なら、『お兄ちゃんとイチャイチャしたい』とかいうキョーレツなセリフを平然と吐いたりしないだろ。」
「え?」
羽衣の涙目がパッと輝いた。押さえていた手を離し、にたりと不敵な笑みを浮かべる。
「今、言った? 今、お兄ちゃん、私のことを『百年に一度の美少女』って認めた? わーい!」
そう言うと、彼女はヘラヘラと嬉しそうに笑いながら、抱き枕でも弄ぶかのようにベッドの上でクネクネと体をくねらせ始めた。長い髪がシーツの上で広がり、足をバタバタさせて布団を蹴散らす様子は、まさに大喜びの子供そのものだった。
「……おい、やめろ、布団がめちゃくちゃだ。」
舎人はそちらを見るのも面倒くさそうに、低く重い声で詰め寄った。その口調には、いつもの茶化しとは明らかに違う、鋭い緊張感が含まれていた。
「ふざけるのはいい加減にしろ。さっきの話だ。『お兄ちゃんとイチャイチャしたくなる』とかいう、意味不明な暴言の説明を要求する。今すぐにだ、羽衣。」
「えー? 今の楽しい空気を壊すの?」
羽衣は唇をとがらせたが、舎人の普段とは違う、少し強めの口調と真剣な眼差しに、ようやく遊び心を引っ込めた。彼女はごろんと仰向けになり、天井を見つめながら、口を開いた。
「……分かったよ、分かった。実はね…昨日の夜のこと。一緒にあの新作の異世界転生ラブコメアニメ、見たでしょ? 最終回の。」
「ああ、確かに見た。魔王と勇者が最終的に両想いになるやつな。で、それがどうした?」
舎人が短く促すと、羽衣は急にモジモジとし始め、シーツの端をぎゅっと握りしめた。頬に薄い赤みが差してくるのが見えた。
「その…アニメの後、興奮が冷めなくて…お兄ちゃんと、その…イチャイチャしちゃって…」
「待て待て待て待て!」
舎人はまるで火がついたように飛び起き、声を荒げて遮った。
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ!? そんなこと一度もしてないぞ! お前の勝手な妄想を、現実の俺に擦り付けるな!」
「ちがーう!」
羽衣もむっとした口調で言い返し、ベッドの上でピョンと跳ねた。
「最後まで聞いてよ! ここからが本番なんだから! 話の腰折らないで!」
「……」
舎人は一瞬、言葉を失った。そして、なぜか自分が小さくなっていることに気づき、不本意そうに舌打ちした。
「……はいはい、わかった。ごめん。続けろ。」
(…しまった。なんで俺が謝らなきゃいけないんだ? しかも、妙にこいつにペースを握られている…) 心の中ではそう呟きつつも、舎人は渋々沈黙し、話を聞く姿勢を取った。
羽衣はこほんと軽く咳払いし、真剣な面持ちで話し始めた。
「あのね。アニメ見終わって、歯を磨いて自分の部屋に戻って寝たんだけど…すごくリアルな夢を見たの。真っ白な、何もない空間に、ぼーっと浮かんでる感じで。そこに、ツーサイドアップに結った長い銀髪で、真っ白なレースのドレスを着た女の子が立ってたの。顔は…なんかぼんやりしててよく覚えてないけど、声はすごく澄んでて…」
羽衣は目を細め、記憶を辿ろうとする。
「その子が、口を開いたの。『汝の深き願望、叶えん…』って、なんか古風で荘厳な言い方で。そしたら、急にその空間がキラキラ光り出して…次の瞬間、目が覚めたら、胸がドキドキして、お兄ちゃんに…えっと…甘えたくて、くっつきたくて、イチャイチャしたくてたまらなくなってたの! もう、止まらなくて! こうなっちゃっただけなんだから!」
「はい────???」
舎人は思わず耳を疑い、呆然と口を開けたまま羽衣を見つめた。眉間のしわは深く刻まれ、顔には「完全に理解不能」という文字が浮かんでいるようだった。
(意味不明すぎる…オカルトアニメの見過ぎで現実と妄想が混線してるのか? それとも単なる寝ぼけ? いや、寝ぼけにしては説明が詳細すぎる…厄介なことになったな。)
「とにかく! 結論は一つ!」
羽衣はベッドの上で立ち上がり(危なっかしいので舎人は思わず手を伸ばしかけた)、両手を腰に当てて宣言した。
「お兄ちゃんとイチャイチャしたくて、こうなっちゃっただけなんだから、今日は存分に甘えさせてもらうからね! 覚悟しといて!」
「おいおい、待てよ!」
舎人は慌てて制止しようとしたが、羽衣の勢いは止まらない。
「お前、明らかに最近見てるオカルトファンタジーアニメの影響受けすぎだろ! それに『汝』とか『深き願望』とか、中二病全開の設定じゃないか! 現実世界に住む普通の兄妹が、そんな夢のせいでイチャイチャとかありえないんだよ、このオカルト中毒オタク!」
「うわーん! ひどい! お兄ちゃんだけには言われたくない!」
羽衣はベッドの上で足をバタバタさせて抗議する。
「私がオタクになったのは、小さい頃からお兄ちゃんの山積みの漫画やらアニメBDやらゲームやらに囲まれて育ったせいでしょ! 完全にお兄ちゃんの影響なんだから! 責任取ってよ!」
「俺のせいだと──!?」
舎人は言い返そうとしたが、確かに自分も大いなるオタクであることを自覚しているだけに、反論が少し弱々しくなってしまった。その刹那──。
「お兄ちゃん、見て! ほら!」
羽衣が突然、窓の方へ駆け寄った。彼女の指さす先には、東の空がほんのりと茜色に染まり始めている。濃い藍色の夜の帳が少しずつ捲れ、薄明るい光が部屋に差し込み始めた。
「夜明けだよ! もうすぐ朝だ!」
小鳥たちのさえずりが、「チュンチュン、チュンチュン」とはっきりと、そして生き生きと聞こえてくる。まるで新しい一日の始まりを祝う合唱のようだ。柔らかな金色の朝日が、カーテンのほんの少し開いた隙間から細い光の帯となって差し込み、床に伸び、微粒子がきらめく光の柱を作り出していた。
羽衣はその光の中に立ち、窓の外を食い入るように見つめている。その動きで、彼女の着ているフワフワのパジャマの裾がふわりと大きく翻った。
「おい! 羽衣!」
舎人は思わず声を荒げ、同時に反射的に目を背けた。顔がほんのり熱くなるのを感じる。
「何度言ったら分かるんだ! パジャマの下にちゃんと下着を着けろって! 何やってるんだ、お前は!」
「あら?」
窓辺で振り返った羽衣の口元に、小悪魔のような、いたずらっぽい笑みがゆっくりと広がった。朝日が彼女の輪郭を柔らかく照らしている。
「お兄ちゃん、その慌てふためいて目を背ける反応…もしかしてね?」
彼女は一歩、舎人の方へ近づいた。目を細め、意味深な口調で続ける。
「禁断の…妹に対する『特別な感情』でも芽生えたりして〜?」
「…………」
一瞬の沈黙。舎人の額には、怒りと困惑と照れが入り混じった血管が浮かび上がった。
「死ね!!!!! このバカ妹がっ!!!」
怒号が、小鳥のさえずりをかき消すほどに、狭い部屋に轟いた。羽衣のケタケタという笑い声が、それに重なって朝の空気を震わせた。