立ち止まって、振り向いて1
築年数がわたしの年齢よりも上の木造アパート、一階。一〇三号室の呼び鈴を押して少し待つと、チェーンを付けたままの扉が控えめに開いた。
僅かな隙間から様子を窺うように顔を出した野島さんは、わたしを見るなり、きりっとした眉の間に深い皺を寄せ、一重まぶたの目を訝しげに細め、そのまま固まってしまった。
「こんばんは。お疲れ様です、野島さん」
「……新聞は間に合ってます」
「訪問販売じゃありません」
「……貴金属は持ってないです」
「訪問買取でもありません」
「……うちテレビはないので……」
「支払い請求でもありません」
警戒心が野生の小動物並みの上司は、ドアの僅かな隙間をさらに数ミリほど内側に引いて、今にもドアを閉めてしまいそうだ。もう五年の付き合いになるというのに、ここまで信用されていないのは、正直少し傷付く。
「じゃ、じゃあ何なんだろ、今日ぶつかって、葵ちゃんが持っていた書類をばらまいちゃったから?」
「いえいえ」
「急いでたからって、それを拾わずに立ち去ったから?」
「いえいえ」
「じゃあこの前飲みに行ったとき、酔って肩組みながらダル絡みしたから、セクハラで裁判起こす?」
「裁判なんて起こしませんよ」
「じゃあ本当に何なんだろう、だって葵ちゃん、来る場所間違ってるでしょ?」
「どちらかと言えば間違ってますね」
野島さんは眉間の皺をさらに深く、一重まぶたの目をさらに細くし、夜間のため潜めていた声をさらに潜めて「……なにこの子、何が目的なん……めっちゃこわいわ……退職して地元帰ろかな……」と、不穏なことを呟いた。心の中で言うべき台詞がだだ漏れである。動揺しているのだろう、滅多に聞けない方言まで漏れ出ている。
同じ会社の先輩である野島さんの自宅アパートを訪ねるのは、これが初めてのことだった。
総合商社の東北支社、流通部門で課長として的確な指示を出してみんなを取りまとめ、後輩たちを時に厳しく時に優しく育て、上からも下からも信頼の厚い彼も、仕事が終わればただの人。特に異性関係にめっぽう弱く、慣れない相手に対してだと途端に萎縮してしまう。
今だってそう。付き合いも五年になり、仕事ではいい先輩と後輩、プライベートでは飲みや映画に出かけたりする友人として、それなりに親しく付き合って来たと思っていたのに。急に自宅を訪ねたことで、完全にわたしを警戒して、決してチェーンを外そうとしない。気付かれないようじりじりと閉まるドアは、まるでアハ体験のようだと思った。
「あのー、葵ちゃんね、こんな時間に女性がひとりで男の部屋に来たらだめ、分かる? もし僕が、こんな年季の入ったアパートにわざわざ来るなんて、もしかして葵ちゃんって僕のこと好きなのかなー、じゃあちょっと押し倒してもいいかなー、って勘違いしちゃったら大変でしょ、分かる?」
「しませんよ」
「それは分からないでしょ、僕はもう風呂に入っているし、布団も敷いてあって、いつでも横になれるんだから。葵ちゃんみたいな小柄な子、すぐに引きずり込んでしまえるよ、って」
「しませんよ」
「……なんなんこの子、全っ然帰らへん……目的が分からん、こわ、めっちゃこわいわ……今戦闘中やのに……大事な場面やのに……居留守使えば良かったわ……」
心の声がだだ漏れな野島さんは、警戒のあまり心の壁をさらに高く厚くしたようだし、夜間に年季の入ったアパートの玄関先で立ち話も近所迷惑だろうから、とにかく中に入れてもらいたい。
「ピザ持って来たんですが、一緒に食べましょう」
「いやあ……」
「このまま平行線では近所迷惑ですし」
「いやあ……」
腕に抱えた「ピザ」の箱に野島さんの心が一瞬揺れ、「近所迷惑」の言葉に、野島さんの良心が動くのを感じた。警戒心は強いが、この人は昔から優しいのだ。その優しさにつけ込んだら、なんだかわたしがとんでもない悪者に見えてしまうけれど、仕方がない。
「ピザ持ってく相手が間違ってるんだよなあ……」
ぼやきつつもようやくドアを開けてくれた野島さんに続き、初めて先輩の住居にお邪魔する。
広くはないキッチンの向こうに、六畳ほどの洋室。部屋の真ん中にはすでに布団が敷かれ、家具はパソコンデスクと、様々な本がぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚がある。シンプルだけれど、灯りは間接照明とパソコンのモニターのみ、という目に悪そうな部屋だった。
灯りを点け、お茶や座布団を用意しようとする野島さんを止め、パソコンデスクに座らせる。
わたしが来るまでパソコンでオンラインゲームをしていたらしいし、それを来訪で中断させてしまったのだから、早くプレイを再開してもらわなければ。パーティーを組んでいる相手に悪い。
「わたしはピザを食べて待っていますので、心ゆくまで鉄砲を撃って、バトルロイヤルを楽しんでください」
「……ゲーム終わったらするの?」
「しませんってば」