りんごバタートーストと鉄仮面
始業前に会社のトイレに入ると壁に張り付いている人がいた
作業着も帽子も白なので完全に同化していて、その肩が小刻みに震えているのでようやく存在に気づき「あの、」と体調を訊こうとした
振り返ったのは『鉄仮面』で整った顔をぐしゃりと歪ませ「彼女に振られたぁぁぁ」と泣き出した
私は次の言葉を紡げずに固まってしまった
ここは女子トイレで鉄仮面も私も女だったからだ
「でさぁ急に連絡先全拒否とブロック」
「食べてた朝食が砂の味、最近お気に入りだったのにもうトラウマで食べられないよぉ」
おにぎりを頬張りながら鉄仮面がぶしゅぶしゅ愚痴る
昼休みコンビニから出てきた私をにっこり笑って捕まえ、会社横の波止場に連れてきて並んで座り昼食を食べている
業務連絡以外喋らず笑わず『鉄仮面』と渾名され本名も覚えていない人と長い付き合いの友達のように
あの後ベテランパート達の姦しい声が近づいてきたら涙を引っ込めトイレから出ていった
入れ違いに入ってきた彼女らは「愛想が無いったら」と口々に言う
その顔は醜悪で鉄仮面は泣き顔まで綺麗なのにと思いながら会釈して自分もそこから離れた
「来月のりっくんの舞台も一緒に遠征だったのに、久しぶりのデートだったのに」「私達のキューピッド…ふふふっ」
見せられたスマホ画面には女物の着物を着た男性がいた
悲しそうに微笑む顔は惹きつけられたがまさかこの方も
「あっ、りっくんは違うよ、この時の舞台の役柄だよ、私みたいな『そういうの』じゃないよ」
「売れない頃から支えてくれた奥様に先立たれてから息子さん育てながら俳優続けて大役もらった素敵な人」
今度からぼっち参戦に出戻りかぁ、としょんぼりする
「お土産買ってくるね、口止め料」「べらべら喋るタイプの娘じゃないって前から知ってるけど」
鉄仮面の買い被りに苦笑する
私はただのコミュ障の事なかれ主義なのに
つい鉄仮面につまらない事を言った
普段からこんな風に話せばいいのにと
瞬時に膨れっ面になった鉄仮面は
「キサくんのこと悪く言った奴らとは絶対嫌」「キサくんは私の夫、戸籍上の」
「キサくんはアロマンティックなの」「でもここは田舎だからいつまでも独身はおかしいって」「だからお互い隠れ蓑になったの」「バイの私が困らないようにしてくれた」
「その大事なキサくんを傷つけるものに誰が笑ってやるもんか」
指の皮をぎりりと噛み怒りに満ちた顔で鉄仮面はまた私が耳慣れない言葉を吐いた
世の中は広いのに私の知識は狭い
職場に向かっていると後ろからクラクション連打とあまり呼ばれることが無い下の名前が連呼された
振り返った先の黒のライトバンの助手席からぶんぶん手を振る鉄仮面
運転席には『戸籍上は夫のキサくん』
蛇、狐、猟犬を思わせる見た目の彼は私と目が合うと怯えた顔をした
その様子に鉄仮面は彼に笑いかけ何か耳元に囁くと私を手招きする
後部座席から紙袋を取り運転席側から乗り出して私に突き出す
「もらってほしいの、私には砂の味だから」「事情知らずにキサくんが買ってきてくれた新品」「シナモンパウダーおうちにある?振るとさらに美味しいよ」
中身はりんごバターの瓶だった
「あ、の、」初めてキサくんが喋った
鉄仮面とドアとの狭い隙間に長身であろう体を潰されたまま
「き、希里と申します、いつも妻のららが、お世話になってます」「僕、仕事の息抜きに、道の駅を廻るのが好きで、そこで見つけて」「…すみません」
つっかえつっかえか細い声でゆっくりと彼は喋った
この人がいたぶられてきた、苦労してきたのをなんだか理解して少し可愛いとも思った
そして鉄仮面の名前を思い出した
最近までお世話をしたこと無い関係だったにしても我ながら酷い
「私ね、今日明日有給取ったの」「失恋ぼっち遠征ー、駅まで送ってもらってたらあなたが見えたから」
「口止め料楽しみにしててね」
鉄仮面、じゃなくてららさんが助手席に戻ると希里さんが隙間から脱出して頭を下げた
最初よりほんのちょびっとだけ頬を緩めている
さっき何と囁かれたは知らないが警戒を解いてくれたらしい
恋愛感情等抜きで信頼できる関係性なんだろう
発進した車を見送りながらなんだか仕事に行きたくなくなってきた
とはいえ小心者の私は急に欠勤などできない
黙々と作業しているとベテラン達が声高に話しているのが耳に入る
いつもは聞き流すのにできなかった
「源氏名みたい名前よね、親の顔が見てみたいわ」「旦那に会ったことある?目つき悪くて愛想無くて…ヤバい仕事してそう」「有給取って何してるんだか、子供もいないのに何の用事があるの」「もう30過ぎでしょ?産むにしてもひとりっ子は可哀想よ、そんなことも考えてないのかしら」
嬉しそうにげたげた笑ってららさんの悪口を吐く
私に浴びせている訳ではない
でも黒くて古くて臭い何かがべっとり貼り付いてくるようで嫌だった
狭い狭い世界のガチガチに固まったくだらない、でも過半数の考え
これを大量に喰らってきた彼女に私は歩み寄ればいいのに、と気安く言ったのだ
早く終業時間になってほしい、家に帰りたい
コールタール状の悪意も自分の面の皮も洗って削ぎ落としたい
痛いくらいに身体を擦って風呂に浸かり早過ぎる時間に布団に潜り込んだのに翌朝私の体調は絶不調だった
熱も無い精神的なものだけど今日はもう仕事に行きたくなかった
どきどきしながら謝罪と欠勤の連絡を入れるとあっさり了承され通話を切った
まぁまぁ長く勤めてるのに所属も名前も曖昧にしか覚えられてなかった
悲しいやら安心したやらで急に空腹を感じる
昨夜は夕飯を食べる気も湧かなかった
まだ朝だしパンでいいか
トースターに食パンを入れてららさんにもらったりんごバターを開けた
賞味期限ぎりぎりのシナモンパウダーが調味料カゴにいたのでそれも持ってくる
焼けたトーストにそれらを塗って振って齧りついた
『鉄仮面』の失恋の味は甘くて塩気があって香りが良くて美味しかった
苦い砂の味と化し二度と食べられなくなった彼女の代わりに2枚目の支度をする
ららさんは呑気に見える笑い顔の面の下で悲しみが溢れ出さないように歯を食い縛ってるかもしれない、怒りに震えてるかもしれない
希里さんの位置まで、は無理でも誰も覚えてくれてなかった私の名前を知っていてくれた彼女と友達になりたいは出過ぎた願いだろうか
明日は仕事に行って昼休みはららさんから口止め料の土産と遠征話をもらうんだ
焼き上がった2枚目のトーストに私はりんごバターを厚く塗った