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花憂う、君と  作者: 一色美雨季
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第三話

「先月、妻の四十九日法要が終わりまして」


 味噌汁で箸の先を湿らせながら、杉浦老人は言った。「一人の夕食にも慣れましたが、それでも寂しいものです」


 はあ、と返事をしながら、光也は揚げ出し豆腐を突付く。暖かい料理。出汁が美味い。学食で食べる業務用出汁の突っ慳貪な化学調味料の味じゃなくて、何というか、口に入れた時の香りがいい。グルメではない光也にも、この家庭的な味の良さはよく分かる。


 古い卓袱台の上に並べられた皿の数は、光也の想像を遥かに凌いでいた。


 件の鯵の南蛮漬けと揚げ出し豆腐はもちろん、ひじきの煮付け、ほうれん草の胡麻和えにワカメの味噌汁、蕪の浅漬けと沢庵、それから湯気の立ち上る暖かな白米が、所狭しと卓袱台の上を割拠している。


 こんな料理は久しぶりだ。


「失礼ですが、この料理は杉浦さんがお作りになったんですか?」

「いえいえ、とんでもない」


 ゆっくりとひじきを噛み含みながら、杉浦老人は首を振る。「私は料理なんて出来ません。いつも長男の嫁が持ってきてくれます。これがなかなか料理好きな嫁でして、『爺いの胃は小さいのだよ』と言うのですが、食べきれない程の料理を作ってくれる。『残ったら捨ててください』と嫁は申しますが、私は昔の人間ですので、どうしてもそれが出来ない。ですから、あなたのようなお若い方に食べるのを手伝っていただけますと、本当に助かります」


 杉浦老人は困ったような顔をして見せたが、けれど、皺に埋もれた細い目は嬉しそうだ。


 息子夫婦に大切にされている好々爺。老人の喋り方から、そんな雰囲気が見て取れる。


「ご長男夫婦は、近くに住んでらっしゃるんですか?」

「隣町におります。長男夫婦の他に、子供が三人。もっとも、上の二人は結婚して、別に所帯を持っておりますが」


 ひ孫もいるんですよ、と老人は笑う。まだ赤ん坊で、爺いが落としてはいけませんので、あまり抱きませんが、と。


 穏やかなじいさんだ、と光也は思う。嗄れ声だが、ゆっくりとした聞き取りやすい喋り方。孫にも、ひ孫にも、きっとこんな風に話しかけるのだろう。赤ん坊の時に祖父母を亡くしている光也は、こんな風に老人を会話を交わしたことがない。小学校の時にボランティアで老人ホームに行ったことはあるけれど、もっと事務的に老人と会話していたように思う。照れもあったのかもしれない。今は暖かい食事を囲んでいるせいか、つい杉浦老人の言葉に耳を傾けてしまう。


 が、そう思うと、光也の中にふとした疑問が湧き上がる。こんな穏やかなじいさんが、アパート住人に対して、あんなおかしな悪戯など仕掛けるだろうか。もしかしたら、勝手に庭に侵入した誰かが、悪戯で石灯籠に蝋燭を点し、和服姿で立っていただけかもしれない。例えば――そう、誰かの別れた彼女とか。一階に住んでいるサラリーマンなんか、すごく女ったらしっぽいじゃないか。和服を着た若い女が、特定の誰かに報復する為にあんな悪戯を仕掛けた。そう考えれば合点がいく。


 もう一切れ南蛮漬けの追加を貰い、ご馳走になったお礼にと、光也が食事の後片付けを申し出ると、老人は素直に「では、お願いします」と頭を下げた。このところの寒さに膝が痛み、流し台の前に立つのが辛かったのだという。


 ここからは慣れたもので、汚れた食器を荒い、光也は残った料理にラップを掛けると冷蔵庫の中に片付けた。失礼とは思いながら冷蔵庫の中を確認すると、他にもたくさんの料理がラップの掛かった状態で突っ込まれている。腐っているものはなさそうだが、確かにこの量は、老人一人では食べきることは出来ないだろう。


 布巾で卓袱台の上を拭き、粗方を片付け終えると、光也はおもむろに、越野さんから貰ったケーキボックスを取り出した。


「お願いがあるのですが」

「ほお」

「実は僕も、今日、バイト先の方からケーキをいただきました。でも、一人暮らしなので、とても手に負える量じゃありません。出来たら、手伝っていただけると助かるんですが」


 ほっほっほっ、と笑って、杉浦老人は「承知しました」と頭を下げた。


「じゃあ、お皿を用意しますね」

「ついでに番茶を淹れていただけますか。爺いは、夜、コーヒーを飲むと、どうにも眠れなくなりますので」


 茶棚を教えてもらい、早速お茶の用意を始める。茶葉の量が分からないが、とりあえずこんなもんだろうと急須に入れて湯を注ぐと、それらしき琥珀の液体が出来上がった。皿とフォークを棚から取り出し、その液体を盆に乗せると、光也はまた卓袱台に向かった。


 卓袱台では、杉浦老人が、ケーキボックスの中のショートケーキと睨めっこをしていた。苺と、チョコレートと、シンプルなチーズケーキ。まるで子供のように悩んでいるのかと思いきや、杉浦老人は光也に気付くと、「一つ、仏壇に供えさせていただいてもよろしいですか?」と、申し訳なさそうにお伺いを立てた。


「死んだ婆あが、苺のケーキが好きだったものですから」


 ええ、どうぞ、と光也が答えると、杉浦老人は嬉しそうに頬に皺を寄せた。


 苺のショートケーキを皿に乗せ、杉浦老人は隣室の襖を開ける。


 途端に押し寄せる、抹香の匂い。首を伸ばして中を窺うと、どうやらそこは仏間のようで、床の間の横には黒光りする仏壇が設置されていた。真新しい生花の中に、丸顔の老女の遺影が見て取れる。ああ、あれが杉浦老人の亡くなった奥さんか、と思っていると、杉浦老人は線香を立て、それからチン、とお鈴を叩いた。


「僕も、お線香を上げさせていただいていいですか?」


 光也が声を掛けると、杉浦老人は「ありがとうございます」と言って、経机の前から腰を浮かせる。


 入れ替わりに光也はそこに座り、線香に火をつけた。ゆっくりと、手を合わせる。知らない人だが、成仏を祈ったところでバチは当たらないだろう。


 優しそうな奥さんですね、と光也が言うと、「はい」と、杉浦老人は頷く。


「いい婆あでした。私には勿体無いくらいです」


 おそらく八十は過ぎているだろうに、それでもノロケが言えるとは。


 何だか微笑ましい気持ちで、光也は遺影の老女を見た。


「梅子と言います。梅の花の時期に生まれたので、梅子と名付けられたそうです。単純なものです」


 いえいえ、なかなかクラシカルで可愛らしいお名前です、と光也は答える。


 梅子さん。


 遺影の中で微笑む梅子さんは、杉浦老人と同じくらいシワシワで、けれど同じくらい穏やかな顔をしていた。一年半も隣のアパートに住んでいたのに、この老夫婦について気に留めたこともなかった。もしかしたら、顔を見たことがあるかもしれない。道で擦れ違ったことがあるかもしれない。それなのに。


 何だか不思議な縁だと、光也は蝋燭の炎を煽り消す。


 卓袱台の場所に戻り、番茶を片手に、杉浦老人はチョコレートケーキを、光也はチーズケーキを食べ始める。


 と、老人はおもむろに立ち上がり、光也に数冊の古いアルバムを見せてくれた。


「これが梅子です」


 老人は一枚の写真を指差す。


 そこには、梅鼠色の地に薄紅色の梅花が描かれた着物を着た、柔らかな笑顔の老女の姿があった。


「これは、梅子が古希の祝いの時のものです」


 古希というと、確か七十歳。シワシワではあるが、遺影よりも少し若く見える。「この頃の梅子は、ポツポツとですが、まだ和裁の仕事をしておりまして、息子達の嫁や、孫の嫁の着物も、全部梅子が仕立ててやりました」


 ああ、それであの炎天下でも、和装の喪服姿が多かったのか、と、光也は納得した。梅子さんの葬式に、梅子さんの仕立てた喪服を着る。きっと皆、どんなに暑くても、供養の気持ちで袖を通したのだろう。


 杉浦老人の説明は続く。隣町に暮らす長男夫婦の話。隣県に暮らす次男夫婦の話。孫は五人、ひ孫は男の子が一人。病床の梅子さんがひ孫の誕生を喜んだとか、生まれて三時間だというのに、もう宮参り着の心配を始めたとか。


 孫の誕生。

 息子達の独立。

 若い頃の、他愛もない夫婦喧嘩。


 杉浦老人の思い出話は、どんどん若かった頃に向かって進んでいく。最後には、見合いに至る馴れ初めまで飛び出して――ふと光也は、一番古いアルバムを開いたところで、相槌を打つことをやめた。


「あの……杉浦さん?」


 紫陽花の花が咲いた頃云々と気持ち良さそうに語っていたところを、光也は思わず手で制す。失礼だとは思ったが、けれどそれどころではない。


 褪せて赤茶けた写真を指差し、「これは、誰ですか?」と、恐る恐る聞いてみる。


 写真の中で微笑む和服姿の少女。長い黒髪。大きな瞳。


 光也の中のぼやけた記憶が、なぜか急速に明確な輪郭を持ち始める。


 まさか、と思う。肯定したくない。頭の中が、ぐるぐると回る。否定したい。でも、そのくせ嫌な予感だけは、心の隅の方で蛇の舌のようにチラチラと蠢いている。


 ぐ、っと息を呑み、光也は杉浦老人の顔を見つめる。


 僅かの、沈黙。


 老人は「ああ」と大きく頷き、それから、満面の笑みを浮かべた。


「梅子ですな。嫁に来る前の」


 ――ああ、やっぱり。


 背筋に薄ら寒いものを感じ、思わず光也は、隣室の梅子さんの遺影を振り返った。



 ――梅子さん。あなたは、あんなところで、いったい何をしていたんですか?

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