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花憂う、君と  作者: 一色美雨季
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第二話

「篠崎君」


 呼び止められて振り向くと、そこには中年女性の顔があった。


 バイト先のおばさん店員、越野さんだ。光也の肩をポンポン叩きながら、「この前は助かったわ、ありがとうね」と、人のよさそうな丸顔に笑みを浮かべる。


「この前って……何でしたっけ?」


「あら、忘れたの? ほら、スマホ」


 ああ、と頷いて、光也も作り笑いを返した。そういえば先日、越野さんがスマホの機種変更をしたら操作方法が分からなくなった、と言っていたのを思い出した。旦那に聞いても鬱陶しがられるし娘達に聞いても馬鹿にされるし……とぼやいていたので、簡単に教えてあげたのだ。


「本当に助かったわ。お礼にケーキを買ってきたの。篠崎君のロッカーの前に置いてあるから、よかったら食べて」


「いや、そんなことまでしてもらわなくても……」


「いいのよ、気持ちだから」


 そう言うと、また越野さんは、光也の肩をポンポンと叩く。


 隣にいたバイト仲間の蔦原が「あんまり触ると逆セクハラになりますよ」とからかうと、越野さんは「あらどうしましょう」とケラケラ笑いながら業務に戻っていった。


 バイトも終わり、タイムカードを押して休憩室に行くと、確かに光也のロッカーの前には、まるでお地蔵さんのお供え物のように、白いケーキボックスが鎮座していた。


「篠崎って、おばさんにモテるよな」


 制服のエプロンを脱ぎながら、蔦原が言う。「おばさん達、みんな言ってるぜ? 篠崎君みたいな息子が欲しいわあ、って」


「顎で使うのに便利だからだろ」


「確かに。お前、『おばさん達の可愛い息子』っていうより、『おばさん達の従順な下僕』って方が似合ってるもんなあ」


 なんだそれ、と笑い、光也もエプロンを脱いで、ロッカーの中に片付けた。代わりにウォッシュレザーのショルダーバッグを取り出し、それを肩に掛ける。


 蔦原も同じような格好だったが、光也と違い、マフラーをグルグルと首に巻きつけている。明らかに既製品とは違う、手編みのマフラー。こう言ってはなんだが、素人目にも編み目が不揃いで、お世辞にも上手とは言えない。


「それ、彼女に貰ったの?」


「うん。お礼は指輪でいいよって言われた。ペアリングが欲しいんだってさ」


「割に合わないな」


「うーん、でも、甘えられてるみたいで、ちょっと嬉しいけどね」


 ふうん、と生返事をし、光也は越野さんから貰ったケーキボックスを開けてみる。ショートケーキが三つ。日持ちのする干菓子や焼き菓子ならともかく、生菓子なんて、一人暮らしの男子高校生にどうしろと言うのだろうか。


「俺の晩飯、これで決定かな」


「いい加減な晩飯だな。糖分と乳脂肪分ばっかりじゃん」


「その他の栄養素は、明日摂るよ」


 蔦原はゲラゲラと笑う。


 思えば、蔦原との付き合いは長い。小学校から高校までずっと一緒。中学時代はさほど仲が良かった訳でもないのだが、高校に入ってからは何となくこうして喋るようになった。さらにはバイト先も一緒の本屋で、光也は外にいる時間のほとんどを、蔦原とともに過ごすようになってしまっている。


「……そういえば、この前、俺、見たかも」


 お先です、と休憩室の店長に挨拶し、二人はざわめく大通りを歩く。


「何を?」


「……笑うなよ?」


「何だよ」


「幽霊っぽい、もの」


 はあ? と素っ頓狂な声を出し、蔦原は露骨に顔を顰める。


「どこで?」


「アパートの隣の一軒家。ほら、夏に葬式があったって言ってただろ。その家の庭」


「どんなの?」


「女だった。長い髪で、白い着物を着てた。明かりのついた石灯籠の横に立っててさ。でも、本当に幽霊だったのかどうか、分からない。夜だったし……一瞬だったし」


「じゃあ、幽霊じゃないかもしれないのか?」


「だから、幽霊っぽいものって言っただろ?」


 何だよ、それ、と言って、蔦原はマフラーを巻きなおす。「その幽霊、定番過ぎるな。なんかの悪戯じゃないのか?」


「でもなあ、隣、じいさんの一人暮らしなんだ。夏に死んだの、ばあさんなんだって。そのじいさんが、俺に悪戯を仕掛けてどうすんの?」


「暇つぶしとか」


「まさか」


「だってさ、うちの田舎の爺ちゃんの家にも石灯籠があるけど、あんなのただの庭飾りで、明かりなんかつけたことないぜ? だから篠崎のそれも、隣じいさんがバイトの女の子でも雇って、アパートの住人ビビらせて楽しんでるだけじゃねえの?」


 もしそうだとしたら、何とも壮大な悪戯だ。下手をしたら、引っ越していくアパート住人だっているかもしれない。大家に訴えられる覚悟があっての悪戯なのだろうか。


 呪われないように気をつけろよ、と手を振られ、蔦原とは駅で別れた。


 気をつけるように言われても、どう気をつければいいのか見当が付かないが、どのみち光也の寝床はあのアパートしかないので、嫌でも帰るしかない。やはり葦原に頭を下げて、家に泊まらせてもらうべきだったろうかなんて考えても、いささか詮無いことである。仕方ない。また今晩も、光也は明かりをつけたまま眠ることになるのだろう。


 アパート前の路地に差し掛かり、光也はふと、隣家の石灯籠が気になった。


 あれから三日も経つというのに、光也はあれ以来、隣家の庭を見ていない。自分がこんなに肝の細い男だったのかと思うと情けなくなってくるが、蔦原の言う通り、隣のじいさんの悪戯と考えてしまえば、その薄気味悪さも若干和らぐ。ならば、本当に悪戯だったのかどうか確認したくなるのが人間と言うもの。どうせ隣家の前を通らなければ、アパートには辿り着けない。ドキドキと胸を高鳴らせ、光也は塀の上から、おっかなびっくり視線を庭先に潜らせた。


 ――石灯籠は、明かりをつけていなかった。


 もちろん幽霊らしき姿も見えない。

 ホッと一息吐き、やはりあれは悪戯だったのだろかと考えていると、不意に背後から、「こんばんは」と声を掛けられた。


 驚いて光也が振り返ると、そこには、件の隣家のじいさんが立っていた。雛鳥の産毛のような禿かけの白髪頭に、シワシワの柔和に見える顔。目が細くて垂れているのは、元来のものなのか皮膚が弛んだ為なのかは分からないが、一見すると穏やかそうに見える、小柄な好々爺だ。


「いかがなさいましたかな?」


 顔同様の嗄れ声で、じいさんは光也に話しかける。


 いや、とか、その、とか口篭ってはみたものの、何かを言わないとこの場から逃げられそうにない。仕方なく光也は、「立派な石灯籠なので……その……出来れば、近くで拝見させていただきたくて……」と、しどろもどろになりながら、とんでもない嘘を吐いた。


 途端にじいさんは、「おお!」と獣のような呻き声を出す。皺の中に埋もれていた瞳が、一瞬大きく見開いたのは、きっと気のせいではないだろう。


「お若いのにお目が高い。さあ、どうぞ中でご覧ください。今、門灯を点けますので」


 町内会に出かけておりまして、うっかり門灯を点け忘れておりまして、などと言いながら、老人は古い石張りの玄関アプローチを急ぐ。うっかり自分のついた嘘を飲み込むことも出来ず、「すいません」などと言いながら、光也は老人の後について歩いた。


 老人と、二人きり。


 庭木が鬱蒼と茂り、路地から伸びる街頭の明かりと仄かな月明かりだけでは、何となく不気味に感じる。が、取って食われるようなことはないだろう。いざとなれば悲鳴を上げてアパート住人に助けを求めればいい。いや、もしかしたら、この老人が幽霊だったりして、などと情けないことを考えていると、不意に辺りが明るくなった。玄関の中に入った老人が、門灯のスイッチを入れたのだ。


 光也は、ちらりと、玄関引き戸の脇に掛かった門札に目を馳せる。


 杉浦徳太朗。


 これが、老人の名前らしい。


「さあさ、どうぞご覧ください」


 老人に促されるまま、光也はアパート側の庭に進む。


 松の木の向こう、梅の木の傍らに、その石灯籠はあった。近くで見ると、なかなか大きな石灯籠だ。丈も、光也の身長と変わらないくらいある。


「春日灯篭です」


 老人は言う。「この大きさと形が気に入って購入したのですが、息子には『年金の無駄遣い』と言われまして……。あなたのようなお若い方に褒めていただけると、本当に嬉しいものです」


 はあ、と作り笑いを浮かべながら、光也は石灯篭の火袋部分を確認する。微かな煤の匂い。見れば、蝋燭の残りかすが残っている。やっぱり、あの日、この石灯篭は点されていた。ならば、やはり蔦原の言う通り、あれは老人の悪戯だったのだろうか。


 どうせここまで来たのだから、ついでとばかりに、光也は老人に鎌を掛けてみる。「僕は、隣のアパートの二階に住んでいるのですが」


「ほう」


「窓から見えるこの石灯籠の明かりには、とても心が癒されるんです」


 ほう、と首を捻り、老人は顔に皺を寄せる。アパート住人を驚かす為のものであれば、この光也の言葉は屈辱的であろうはずなのだが、けれど老人の表情からは、それを読み取ることは出来ない。失敗した、と光也は思う。薄明かりの上に元々が皺だらけである為、老人の表情が変わったのかどうか分からないからだ。


「失礼ですが、お名前は?」


「篠崎です」


「ならば、篠崎さん」


 ぽん、と老人は両手を叩く。「中でお茶でもいかがですかな?」


「いえ、あの、そこまでしていただかなくても」


 思わず光也は後退る。普段、老人と接することがないので分からないのだが、老人というのは、こんなに無警戒に、しかも唐突に他人を家に上げるものなのだろうか。それとも、何かを企んでいるのだろうか。


「お夕飯はお済みですかな?」


「いえ、これからですが……」


「おお、それは良かった。では、うちで食べていってください。鯵の南蛮漬けが食べきれないほどありまして、出来れば、食べるのを手伝っていただけると助かります」


 鯵の南蛮漬け。


 ふと光也の頭の中に、三つのショートケーキが浮かび上がる。糖分と乳脂肪分の権化。それと天秤にかければ、鯵の南蛮漬けは遥かに魅力的だ。が、ここで、この誘いに乗ってもいいものかどうか分からない。でも、とか、やっぱり、とか言い澱んでいると、駄目押しとばかりに老人は、「揚げ出し豆腐もありますから」と悪魔の囁きを放った。


 うう、と小さく呻き、思わず光也は、「じゃあ……」と返答してしまう。


 一人暮らしを始めてから約一年半。光也は学食以外で、まともなものを口にしたことがない。どうにも自炊が苦手で、朝食はインスタントコーヒー、夜はジャンクフードか適当なものを口に放り込む、という食生活を続けてきた。そんな光也にとって、老人の口から放たれた『鯵の南蛮漬け』と『揚げ出し豆腐』というのは、誘惑の呪文以外の何ものでもないのだ。


 まあ、相手は小柄な老人だし、大丈夫だよな。


 何が大丈夫なのか分からないが、とにかく自分で自分を納得させ、光也はまた老人の後ろを付いて歩く。


 玄関引き戸を潜って靴を脱ぎ、老人に案内されるまま奥の部屋に入る。


 昔ながらの卓袱台が置かれた、簡素な和室。


 微かな抹香の香りに軽い眩暈を覚えながら、光也はその卓袱台の前に腰を落ち着けた。

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