第一話
お届けものです、と宅配屋がやってきたのは、十月中旬のことだった。
ああどうも、とドアを開け、差し出されたボールペンで『篠崎光也』とサインを書く。果たしてそれは文字として成り立つのかどうかも怪しいような汚いサインだったが、向こうが「ありがとうございました」と頭を下げて走り去ったので、別段問題はないのだろう。
差出人欄には、久しく顔を見ていない叔母の名前。
早速、丁寧に巻かれたクラフト紙を破り、中身の確認に取り掛かる。中から出てきたのは、緩衝材が丁寧にまかれたプリンター複合機。叔母が仕事で使っていたもので、新しいものを買うからとお下がりでもらったのだが、雑なことが嫌いな叔母の持ち物だけあって、見た目はほぼ新品だ。外箱までパーフェクト。プリンタードライバーを入れて動作確認をしてみないといけないが、おそらく問題はないだろう。サプライズは、その剥ぎ取った緩衝材の中から出てきた小ぶりの包みだ。中に入っていたのはコンパクトなデジカメで、同封されたメモ用紙には『いらなければ売ってお小遣いにでもしなさい』と書いてある。
やった臨時収入だ、とほくそ笑み、光也は、まずはプリンターをどこに置こうかと狭い室内を見回す。
一般的な家庭用プリンターとはいえ、それは思いのほか大きかった。先にサイズだけでも聞いておけばよかったなあと思うが、今さら悔いても仕方がない。
まあいいさ、と破った緩衝材を丸め、光也は玄関脇の小さな流し台でインスタントコーヒーを淹れる。
今日は気分がいい。陰鬱とまではいかないが、普段からあまり晴れやかな気分になることの少ない光也だったから、たまにはこんな気持ちになってもいいだろう。
マグカップから立ち上る湯気にふうっと息を吐き、ちらりと壁際のスチールラックを見る。乱雑に物が突っ込まれたそれはホームセンターの特価品として買ってきた安物で、耐久性についてはよく分からないが、ひとまずそこを片付けて置き場所とすることにしようと思う。
さて、プリンターの設置場所は決まった。スチールラックの片付けでもはじめるかとマグカップをシンクに置いた光也は、ふとベッドの上に放置された目覚まし時計を見る。
「片付けの前に、洗濯物を取り込まないとな」
誰に言うでもなく呟いて、光也は薄いグレーのカーテンを開ける。
ちょうど太陽が西の空に落ちようとしているところだった。攻め入ろうとする夕闇に、大きな橙色の太陽が最後の足掻きの如く鮮やかな色を放っている。まるで攻防戦のような空の変色に、光也はふと目を止める。
――ああ、奇麗だな。
そういえば、こんなにゆっくりと夕陽を見るのは久しぶりだった。思えば、学校とバイト先とアパートとを往復するだけの生活で、空の色を気にする余裕もなかった。そもそもベランダに出ることだって、三日に一度の洗濯の日だけなのだ。それすらも億劫で、下手をすれば室内に湿り気たっぷりの洗濯物を干してしまうことだってある。あまり気持ちのいいものではないが、面倒臭いが先にたつのだから仕様がない。
どれくらい、そうしていただろうか。
宵闇が辺りを覆い尽くす既の所で思い立ち、光也は慌てて洗濯物を取り込んだ。久しぶりに外干ししたというのに、微かに夜の湿り気を帯びてしまった気がする。悔しげに舌打ちをし、部屋の中に洗濯物を放り込もうとした、その時。
視界の隅を、何か淡いものが翳めた。
白いような、薄桃色のような。
宵闇のせいではっきりとはしないが、確かにそれは、光也の視界の中で蠢いた。
何となく、視線を隣家の庭先に落とす。
古い日本家屋がたたずむ隣家は、よく手入れされた広い庭を有していた。立派な庭木と盆栽棚だらけの趣味の庭に、大きな石灯籠が淡い光を放っている。
その石灯籠の傍らに――淡いものは、あった。
それは長い黒髪の女だった。宵闇のせいで、顔ははっきりと見えない。身に纏っているのは白い着物。いや、本当に白なのかどうかは分からない。石灯籠の明かりの下では、白っぽく見えるというだけのことかもしれない。
ただ……淡い。
輪郭が、どうしようもなく淡い。闇のせいか、明かりのせいか、とにかく足を確認しようとして。
――目が、合ってしまった。
大きな、吸い込まれるような瞳。
あ、と声が出そうになって、思わず光也は一歩後退る。
瞬間、女の影は消えた。
足が付いていたのなら、庭木の陰に隠れたのかもしれない。でも、足が付いていなかったのなら……。
思わず、自分の部屋を覗き込む。
まさか、ホラー映画でもあるまいし、ここに来ているなんてことはないだろう。いや――なにを馬鹿なことを。そんなこと、あっては困る。
恐る恐る部屋に入り、両手に抱えた洗濯物を放り投げて、大急ぎで部屋の明かりを点す。
ほら、誰もいない。誰も、いるはずがない。
大きく息を吐いて、光也は力なくへたり込んだ。
勘弁して欲しい。
息が上がり、心臓が激しく高鳴っている。
今晩は、一晩中明かりを点けて眠るしかなさそうだ。
§
隣家で葬式があったのは、今年の夏のことだった。
七月の終わりだったのか八月の頭だったのかは覚えていないが、とにかく茹だるような暑い盛りだったように思う。
たまたまその日は学校もバイトも休みで、光也は開け放した窓から、コーラを片手にぼんやりと会葬客の群れを眺めていた。
暑苦しい喪服の集団。男連中は黒いジャケットを手に持ち、皆一様にワイシャツを腕まくりしている。滴り落ちる汗。涙を拭う為のものであったハンカチは、もはや汗拭き専用となっている。
気の毒なのは女性達だ。この暑さなのだから洋装の喪服を着ればいいのに、なぜか和服姿の参列者が多い。とても今時の葬式とは思えないくらいだ。きっと、あの黒い帯の下は、滴り落ちるほどの汗を掻いているに違いない。喪主の妻ともなれば、あの姿で会葬客に挨拶して回らなければならないのだから、きっとアスリート並みに体力を消耗していることだろう。
ここまで匂うはずのない抹香の香りと、微かに聞こえる読経に耳を傾けながら、光也は僅かに郷愁を覚えた。いや、郷愁なんて生半可なものじゃない。忘れられないあの過去は、もっと痛烈な、痛みにも近いもの。
――ああ、でも、こんな思い出し方はよくない。
溜息混じりに小さく首を振り、傍らで温くなりかけていたコーラに口を付けようとして、もう一度、光也は隣家の庭に目をやった。
女の子が泣いていた。
あれは確か、隣町の女子高の制服だ。私立校にありがちな、やけに凝ったデザインのセーラー服で、喪服の群れに混じると、まるで晴れ着でも着ているかのように見える。
きちんと纏め上げたポニーテールの後姿。細い肩を震わせて、女の子は泣いていた。きっと、故人の濃い身内なのだろう。でなければ、あんな激しい嗚咽などしない。
何だか居た堪れなくなって、光也は窓を閉めた。噎せ返るような室温に慌ててエアコンを入れ、冷蔵庫から冷たく冷えたミネラルウォーターを取り出す。
あんな泣き声、久しぶりに聞いた。
蝉の声よりも激しい泣き声。中古のエアコンの轟々と唸る送風音よりも、今なお耳について離れない。
遠い昔にも聞いた泣き声。
あれは誰のものだったのか。
母か、父か、それとも……。
そしてそれは、初秋を過ぎて晩秋に入ろうとしている今でも、耳に残ってはなれないのだ。