六
ストムは一転して、随分無気力となった。部屋に籠もり、飯時にだけ一階に下り、気の済むまでリビングでテレビを見た。これは、妹が兄に求めたはずの生活様式である。が、彼女はことあるごとに詰問してくる。もう懲りたんでしょう、とか、やっと静かにしている気になった? とか、いちいち言い方が鼻につく。ストムはそれに対し、黙秘を貫くばかりである。ああとか、うんとかいなしている。が、遂にノックも無しにストムの部屋へ侵入してきたのは、さすがに見過ごせない。彼は漫画を携えながら、ジェファニーに恨み言をぶつぶつ呟く。それも意に介さず、彼女が口を開くには、「一体、どうしちゃったの?」と問う。矛盾している、と思う。学校がなくなった時くらい静かにしていろと言ったのは、ジェファニーである。
「何も無いよ」と、話し合う気の無いことを示す。ジェファニーは今度、しつこい。
「おかしいじゃない」と一言放つと、「ええ、おかしいわ」と自分で復唱する。ストムは漫画に目を落とし、黙っている。
「絶対、何かあったに違いない」
彼女がまた独り言のように言うから、繰り返さないかなと、ストムが傾聴していると、「ええ、違いない」と消え入りそうな声が聞き取れたから、思わず鼻を鳴らす。
「その漫画、そんなに可笑しいわけ?」
ジェファニーの考察はまるで見当違いである。否定するのも面倒だから、ストムは一枚ページをめくる。
今頃になってのジェファニーの詮索は、終始興味本位につき動かされるものである。決して、ストムへの同情ではない。彼が本心を語れば、彼女はそれで満足して去るだろうし、納得のいく答えなら、平気で嘘でも受け入れるだろう。ストムの妹への不信感は、この根底に基づいている。
一方のジェファニーは知への欲求を抑えられない。
「ねえ、今日ばっかりは答えてよ。明日からは隣町の学校に行くんでしょう? そうしたら今の気持ちを忘れてしまうかもしれないじゃない。もう、今が最後のチャンスだと思うの。ねっ? 早く言ってみて」
ストムはジェファニーの言い分を聞く内、ますます理解できなくなる。何故、彼女はこうも他人の事情を知りたがる?
ストムはもう、痕に執着しなくて済む身分になったのである。記憶は大分希薄になった。大船の厳密な輪郭も思い起こせない。それを無理やり掘り返そうとするのが、今ジェファニーのやろうとする所業である。
「行ったんでしょう? あそこに」
ストムは、いい加減決着をつけなくてはならないと思い、漫画を伏せる。
「あそこって?」
「決まってるわ。ジャーニー航海士学校よ」
「行ったけど、それが? もう跡形も無いさ。残骸しか無かったよ」
「だから、もう行かないってわけ?」
「そう言うことだね」
「まさか。何か隠してるでしょ。だって、それなら二日も出かけなくて済むはずよ」
「一日目は行ってないんだ。その日は向かいのお婆さんとお爺さんの家にお邪魔したよ。あと、グレイグとも遊んだ」
「へえ、あのお爺さんの家にねえ」
「悪い?」
「何故行ったの?」
「それは……社会勉強みたいなものさ」
「お兄ちゃん。確かに、嘘はばれなきゃ真実にだってなり得る。でもね、お兄ちゃんのはまるっきり嘘だって、すぐに分かっちゃう」
ストムは彼女の言い回しに、どきりとする。
「嘘で悪いかよ」と、台無しを言う。
「本当は何で?」
分が悪くなったストムは、一刻も早く話を断ち切りたくなった。立ち上がって、乱暴にジェファニーを追い出す。扉を強く閉める。はあ、とため息をつきながら、この振る舞いは向かいのお爺さんのものに似ているな、と思う。
ストムは、ベッドの脇に付いている窓を開けてみた。本日は生憎の雨天だ。だからだ、出かけないのは。
ストムは暫く、窓枠に肘をついている。雨粒の弾ける音を聞く内に、どうも、痕の様子を見に行きたい衝動に駆られた。いかんいかん、とストムは頭を振るが、振れば振るほど、二日間の探偵の思い出が蘇ってくる。忘れたと思っていたけれど、全然。幾条もの筋が蕭蕭と降りしきる中に、像は明らかに結ばれる。——ボウルに行儀良く並ぶクッキーやら、つぶれ顔やら、老いた彼の大きな背中、崩れ去る石、朝の冷ややかな風景、晴天の海景色、灯台——灯台は、今この時にも、曇天の下、白肌を潤わせながら、悄然と俯瞰するらしい。
見に行かねばならない。ストムは、自分だけは大船を忘れてはならぬと思い出した。
湿った部屋を、明かりもつけたままで飛び出して、手持ち無沙汰の私服で玄関から駆けた。その際、片手間に傘を持ち出すことは忘れない。人通りの無い、住宅街の雨天下をひた走る。途中、前方霧がかった中に浮かび上がってきたのは、ロロの後ろ姿であり、赤焼けであった。
『腕』の袖口に、ストムは停止する。視界を隠す傘をどける。見え広がるは、廃墟である。『腕』を歩む。
奥の空には、低く、灰色の曇天が垂れこめている。黒と灰の連続は、これほど暗鬱か。その深刻な一枚画に、幾筋も線が真っ逆さまに落ちている。吹かれると斜になる。これは動画なのだと、ようやくストムも我に返る。
瓦礫からは、雫が滴り、水たまりを形成している。振り返ると、町が鎮静されて惨憺としている。この画を描き出す者の筆勢は、雨を上から下に払い、突進させるところに良く顕れる。山に今にも静かな雷を落とそうと奮っている。柔風で偶に手入れをする。その筆遣いを地肌に触れる。
見やると、灯台が蕭条を受け入れ、確かに立っている。拒む事は無い。あまりに強大な力に打ち倒されるまでは、気張るでも甘んじるでも無く、ただ立ち、観続ける。
ストムはかがんでみる。傘の面が耳元で雨粒を受けるようになる。艶やかに濡れた拳大の石を、拾い上げた。そっと、戻す。立ち上がる。——ストムはその時、澄んだ瞳をしていた。が、そこに捉えたものに、大きく見開いた。幻ではない。ちゃんとそこにいる。おかっぱ頭のずんぐりむっくりと、しゃくれた顎で、ゴツゴツとした体格の彼。セーラーを身に纏い、傘をささない。
サーと言う音だけがある。次の画は、二対一に向かい合う構図である。ロロの前髪が、重みで額にぺったりと張り付く。グラはわざと俯いて、小さな眼を上目遣いにしている。——ストムは傘を捨てる。
両者は雨に晒されながら、無言の内に距離を詰めた。ザッザッと砂利を踏みしめて、いよいよ止まった。ストムは暫く、言葉による意思疎通を忘れていた。静観し合うばかりで、変化が無いからやっと気付いた。
「君たちが、ロロとグラ?」
この確認は、調子を整えるためのものである。
「そうです」と、肩にグラの手を置かれた、ロロが答える。
「何故、この学校を壊したの?」
ストムは懲りずに聞く。
「……あなたは、この前の……」
数秒の無言。
「何故こんなところにいるの?」
「私たちは、ここにいなければならない」
「どうして?」
「弔いのためです」
「弔いだって?」
ストムは耳を疑う。
「君たちが……こんな風に傷つけたのに?」
「私たちは、救ったのです」
「何を救ったって?」
「助けを、求めた者をです。私たちは、求められた」
ロロが上向いて、雨粒が弾けた。
「誰に」
「……私たちは、声を聞くのです。苦しみ、泣き叫ぶ声を」
「声だって……」
「……いいですか? 九十九人が幸せで、一人が不幸な村があるとします。すると、私たちは、その一人の声に耳を傾け、望みを叶えてやるのです。——この学校には、少なくとも一人、不幸な者がいた。そして、その者は、この校舎が跡形も無くなることを願った」
「それはおかしいよ! だって……おかしいじゃないか」
「あなた、あなたは九十九人の内の一人ですよね? 私たちは、一つの正義の形なのです。苦しい声を聞きつけ、叶える。そして、後は祈る」
「そんな、自分勝手な」
「障害は一人で乗り越えるのは難しい。けれども、誰かが手を差し伸べてくれれば、たちどころに突破することができるのです。——私は目が見えない。彼は、うまく話すことができません」
「えっ……」
「気の毒だと思いますか? ええ、私一人では随分気の毒でしょう。私は手先が器用です。でも、見えなければどうにもなりません。彼がいるから整備士でいられるのです。彼も同じです。彼にとって私が、意思を滑らかに伝える手段なのです」
グラがロロの肩に手を置いているのが、とりわけストムの目につくようになる。
「一人ぼっちが、最も辛い」
ロロが最後に呟く。
ストムは勢いをまるっきり失い、方向転換する。傘を拾って、退散する。一度だけ顧みる。画はそれっきりで、動き出す。