四
ストムは昼餉を食う為、家に帰る。両親も妹も既に揃って、食卓が囲まれている。この港町では、昼の食事が最も重要視される。だから、職場に通う働き手も、学校に通う学生も、家族全員ができる限り揃って一日の内で一番豪勢な食事をとる。大船の内に長く居たストムは、久方ぶりにこうして集まり、食事をとる。
妹の通うのは勉強熱心な進学校である。いずれは町を飛び出して、都会へ進出するのだろう。それとは対照に、ストムは港町に残って、順境に船乗りとなるはずであった。ちなみに、父親は町の議員である。その仕事の詳細を、ストムは良く知らない。
母親が、探偵を中断して帰ってきたストムを「早く」と招く。セーラーの袖や顔を洗って、上着は洗濯機に入れる。二階で着替えてきて、やっと席に着く。
父親が、「昨日もいなかったな。今日は何をしていた?」と聞く。
「ちょっとね」と曖昧な返事をする。すると、父は意外にもしつこく詰問してくる。だからストムも観念して、「学校の跡地に行ってきた」と白状した。父親は「そうか」と満足した。母も妹も、この話には頓着するそぶりも見せず、着々華やかな飯を摘まんでいる。ストムもそれに倣う他無い。
少年は途端に寂しくなる。暮らしを共にするこの三人の中に、感慨の共有はおろか、ストムの本心を推し量ろうと言う気概の者はいない。彼らにとって、あの大船の学舎は、ただ『ダメ』になった物のあとでしか無いのかも知れない。——少年は心持ち早食いして、さっさと二階の部屋に引き籠もってしまった。無論、すぐに出ていくつもりだ。この寂寥を紛らすには、外へ仲間を求める他にあるまい。そう、あの老いた彼のような。
荷造りをせっせとやる。要るのか要らないのか、あまり分別のつかないものを詰め込んだリュックサックを背負っていくことにする。そこに、妹のジェファニーが不作法に入室してきた。早速悪態をつく。
「お兄ちゃん、また出かける気?」
「悪いか?」
「どうせ学校なくなったんなら、その時くらい家で静かにしてなさいよ」
何故そうしなければならないのか分からないから、ストムは聞く耳を持たない。
「用事があるんだよ」
「用事?」
ジェファニーはますます不満を募らせる。
「お母さんもお父さんも、お兄ちゃんに久しぶりに会えて嬉しいのよ。もっと長く一緒に居てあげればいいじゃない。この昼下がり時くらい」
「いいんだよお」
ストムは片手間に答える。一緒に居たいなんて嘘だ、と思っている。
「ついでに……船乗りになんかなるの、やめちゃいなさいよ。みんな本心では危険だって、心配してるのよ」
これが事実なら、ちょっと衝撃である。ストムは妹を叱ってやろうかとも考えたが、やめておいた。頑固な彼女に何を語ってやっても、時間の無駄だと思った。
ジェファニーの脇をすり抜けて出て行く。背には緑のリュックを忘れていない。
「いっつもセーラー服着て、ばっかみたい」
浴びせられた悪言の矢は、リュックサックを透過してストムの心に直接突き刺さる。少年はその矢を、痛くないよう丁寧に抜いてやる。が、あとから怒りが段々沸き始める。いつの間にか小声で毒づいていた。
「何だ、みんなして船はやめとけやめとけって。俺は安全にただ生き延びたいんじゃはい。冒険をして純粋な感動を見つけたいんだ。これは誰のものでもない、俺の人生だ」
無論、ジェファニーには聞こえない。
ストムは行く場所を明確には決めていなかった。けれどもそれなりの準備をして出ていくからには、遠出になるだろうことだけは、密かに約束していた。決して家出をするわけではないが、隣町まで足を運ぼうかとの心算である。
ストムは初めのうち、直向きにテクテク歩いたが、十分もすると太ももが張る。午前中の疲労も相まっているらしい。が、この程度の痛みは、ストムも意に介さず進んでいく。彼は今大人ではない、けれども子どもでもないと言うような、なりふり構わぬ体である。
ちょうど町の境にまで来ると、一度後方を振り返ってみる。一歩ここを踏み出すと、ストムは途端に何もわからなくなる。普段家族や友人たちと往来する時などは、こんな境目などには気がつかないで、いつの間にか隣町を遊歩しているのだろう。一人でいると何事にも良く気がつくものだ。例えば、向かってくる人の髪の寝癖が強いだとか、今日は潮の匂いが良く香るだとか、とにかく歩く間中そのようなことをそぞろに考えている。
境だとは言っても、特別目に見える境界線が引かれているわけではないし、塗り壁に隔てられているというのでもない。山を一つ越えるのでもないし、川が一筋遮っていることもない。ただ、一個の立て札がそれを知らせているのみである。
ストムらは、おそらくこの町の学校に移される。老いた彼が言っていた。その下見も兼ねていると言えば、今度の冒険の口実にもなろう。——ストムはそのうちに、隣町に進入した
ストムは浮き足立っている。考えてみると、このような一人旅は初めてかも知れない。いつの時にも、彼の隣には誰かいた。彼が自由に動き回るのは、彼の知っている場所であった。彼はとうとう、領域を出た。それは初の船出と同じことである。
ところで、今度通うことになるであろう学校を訪ねるにしても、その所在が分からない。未知とはそういうことである。手探りで何事も調えていかなくてはならない。どこに在るかも分からず、もしかして本当に在るのかさえ分からず、探る所業である。これは、老いた彼も実践していたことだ。
誰かに尋ねようなどという考えは、微塵も浮かばなかった。ストムは咄嗟考えを働かせて、廃墟の大船から臨んだ景色を想起した。あの、雲の端のかかる灯台である。ストムは学校云々には構わずに、海岸の方角へと歩を向けた。見知らぬ土地を、一つ思い描いたのを当てに、ひたすら潜っていく。引き返す考えは起きなかった。
数分行って、波の砕ける音が聞こえるようになる。家と家の並ぶ細い隙間を夢中に行くと——そこに陸離の海原が開けた。雲は遠くに揺れ、快晴に的皪と光る海が広がっている。
水平線に着目する。それからぐるりと見回してみると、突き出した陸に聳え立つ、灯台を発見する。それは今、すぐそこに堂々と生えている。近寄ってみる。
その粗い白肌に触れて臨むと、港から伸びた例の『腕』に辛うじて繋ぎ止められた人工島が見える。ストムは、大船の健在時の眺望を必死に思い浮かべようとする。きっと、壮大であったに違いない。
ストムは飽きずにじっと見つめている。その光景は、ストムらの日常であったものである。只中に居るうちには想像だにせぬ、ある鳥瞰の視点である。依然左の掌には、白の灯台の感触がある。あの凄惨な渦中にしゃがみ込み、熱心に石を並べていた時と同じように、生温いそよ風が抜けていく。ちょっと見上げてみると、共に観ていた灯台の、背の高さを思い知った。——こいつはずっとここから、雄々しく動いてきた、大船を中心とした港の時代を見守ってきたのだと、ストムは感激した。
ずうっと視線を落としていくと、そこら一帯は雑草が繁茂するのに、足元に黒土の覗く箇所を見つけた。もしかすると灯台に寄り添いながら、無意識に草を抜きなんかして、ここから誰かが観ていた——そんな妄想まで膨らませる。するとストムは、何だか身体の芯からポカポカとしてきて、しようがなかった。