番外編〜事件後夜-6
「岩波さん。これから、この子のことを頼みますよ」
コートを着ながら、保が深々と頭を下げた。
「ああ。大した力にはなれんと思うが…任せておけ」
岩波が小さく頷く。
拓人は、岩波の隣に立ったまま、ぼうっと保を見ていた。まだ、この人の息子になるということに実感が湧いていないのだ。しかし、拓人と保の心は、深い所でしっかりと繋がっていた。
「それと…岩波さん」
部屋から出ていきかけていた保が、ふと足を止めて振り返る。
「隼人くんのことは…本当に、残念でした」
「…!」
岩波は、急に押し黙った。動けなくなった、と言ったほうが正しいかもしれない。
彼は、まだ隼人の話をすることが出来ない。三日前の出来事を思い出す度、胸が締め付けられて苦しくなる。
そんな刑事の様子を見て、保は再び口を開いた。
「…岩波さん。辛いときは、私に、何でも言ってくださいね」
「…」
「息子を傷つけられた哀しみは、私が一番解ってますから」
保は、知っていた。たびたび小さな喧嘩をしながらも、ぶつかりながらも、岩波と隼人の間には、親子に似た絆があったことを。
「…」
岩波は、何も答えないまま、保を見つめていた。
「希望を忘れないで下さい。まだ、隼人くんは生きているんですから」
保が微笑む。
「傍に、居てあげてください…私が、祐太の傍に居てやれなかった分まで」
そして、訪問者は拓人に小さく頷きかけてみせると、静かに出ていってしまった。
あとに、現実を信じられないでいる拓人と、動けないでいる岩波を残して。
*
病室は、再び静かな夜を迎えようとしていた。窓からさんさんと差し込んでいた光の筋はいつの間にか消え、黄昏時の青い闇がベッドを包んでいる。
椅子に腰掛け、意気込んで本を読んでいたエレナが、眠そうに目を擦った。
「ヨーコぉ〜。そろそろ銭湯行かない?あたし疲れちゃった」
「まだ三ページしか読んでないじゃない」
ベッドの端に座っていたヨーコがニヤッとして、夏休みの宿題から顔を上げる。英文法の、長ったらしいワークブックだ。
「エレナ、五年も本に触れてなかったもんねぇ。読むのが遅いのも、当たり前かー」
すると、エレナは膨れて、ヨーコの手から素早くワークブックを取り上げた。
「またそう言ってバカにするぅ。ヨーコだって、さっきから全然進んでないじゃないっ」
「だって、難しいんだもんっ!」
「そうかなぁ。ヨーコが授業中に隼人の妄想してて、何にも聞いてなかったんじゃないの?」
それを言われて、ヨーコは押し黙った。何故なら、それは事実だったから…。
「とにかくさ。銭湯行こうよっ」
エレナが元気よく言った。
この三日間、二人の少女は病院近くの銭湯を利用している。ヨーコにとっては、初めての体験だ。珈琲牛乳を売っていることや、湯船に浸かった時、目の前に広大な富士山の絵が広がることに驚いた。
「ねっ。行こっ」
エレナがピョン、と椅子からベッドに飛び移る。スプリングが大きく軋み、ヨーコは隼人の上にデーンと投げ出された。
勿論、それで隼人が目覚めることは無い。しかし、ヨーコは一瞬「起こしちゃうじゃない!」とエレナに怒鳴りそうになった。本当は、「起きてほしい」と心から願っているのに…。
「わかった。行こうか」
少し名残惜しさを感じながら、ヨーコは隼人の身体から上半身を起こす。早く離れなければ、彼の温もりを感じて、泣きそうになるから…。
ちょうどその時。
「邪魔するぞ」
男の声がして、病室の扉がゆっくりと開いた。
「岩波刑事!」
弾かれたように、二人の少女が立ち上がる。
現れたのは、岩波だった。ざっくりとしたコートを脱ぎながら、表情一つ変えずに入ってくる。彼が病室にやってくるのは、事件当日以来、三日ぶりだ。
「桐原。お前、俺に用があって署まで来たそうだな。麗奈から聞いた」
「あ…はい」
ヨーコは緊張しながら頷いた。岩波がいると、空気がピィンと張り詰める。それをものともせず彼と付き合えるのは、マドンナと隼人位なものだろう。
刑事は、隅のクローゼットにコートを掛けた。
「用とは…隼人のことか?」
「…はい…」
ヨーコは、床に目を落とした。
「どうしても、隼人を撃ったのが誰か、知りたかったんです。でも、もう会いました…さっき」
その言葉に、エレナがサッとヨーコに視線を走らせる。
「会ったの?…坂上優也に?」
「会った…」
ヨーコは、床を見つめたまま、ふわりと隼人の横に腰を下ろした。
「会わなきゃよかった…」
会わなければ、あんな残酷な言葉を聞かずに済んだのに。
「…」
岩波は、無言で灰色のネクタイを緩めた。その厳しい顔つきに、二人の少女は本能的に息を潜める。刑事は、チラリとも二人を見ようとせず、何かに腹を立てているような雰囲気を醸し出していた。
「立川。悪いが、少しの間だけ席を外して貰いたい」
それが、沈黙の後に岩波が低い声で告げた言葉だった。
「いいな?」
「…うん」
エレナは、素直に頷く。彼女は、この刑事の言うことには反発できなかった。
エレナにとって、他の大人達と岩波とは、全く違う。それが何故なのかは、よく解らない。隼人が岩波を慕っていたからかもしれないし、事件の夜、救急車の中で、岩波がエレナに全ての真相を話したからかもしれなかった。
エレナは、ベッド脇に転がっていたスポーツバッグをひょいと肩にかけ、ヨーコに微笑み掛けた。
「あたし、銭湯行ってくるから。ゆっくり喋っててよ」
「あ…うん…ありがと」
ヨーコは、歯切れの悪い返答をする。いざ岩波と二人きりになると思うと、身体が強ばってしまうのだ。
すると、ヨーコの気持ちを察したのか、エレナはそっと囁いた。
「大丈夫。隼人が一緒だから」
ヨーコの瞳が、一瞬にして輝いた。『彼』の名が、彼女の中に奇跡を起こしたかのように。
これを見ていて面白くないのは岩波だ。刑事は、憮然として言った。
「なんだよ。俺と一対一ってのは、そんなに恐ろしいモンなのか?」
──まさに、その通りである──と言わんばかりに、二人の少女がこくんとした。