ささやかな喜び
「ただいまぁー」
叫ぶなり、ヨーコは鞄を玄関先に放り投げて、家に駆け込んだ。
家の中には、誰もいない。
両親は共働きをしていて夜遅くまで帰ってこない。
1つ上の兄は、今年から一人暮らしだ。
ヨーコはそれでも、毎日「ただいま」と言う。
幼い頃から身についてしまった習慣は、なかなかとれるものではないのだ。
今日は、隼人の仕事が早く終わる日。
なぜって、ヨーコの誕生日だから。
ヨーコが1人で誕生日を迎えることになりそうだと知った隼人は、両親が帰ってくる夜9時前まで、2人でパーティーをしていようともちかけてくれた。
だから、ヨーコは楽しみでたまらない。
…隼人が尋ねてくるまでに、家の中を片付けておかなくっちゃ。
ヨーコはてきぱきと、準備を始めた。
家中くまなく掃除機をかけ(傍から見れば乱雑に)、窓を磨き(傍から見ればガラスを割りそうな勢いで)、散らかったものをパパッと片付ける(実は見えないところにグチャグチャに突っ込んだだけ)。
家が綺麗になったところで、ヨーコはふう、と息をついた。
あと、何か準備しておくものはないか。
食べ物は、お母さんがターキーを冷蔵庫に入れておいてくれたから大丈夫。
レンジでチンすれば、すぐに食べられる。
隼人には物足りないかも知れないが、シャンメリーもある。
お父さんのワインラックにはウォッカが入っているが、強すぎて隼人ですら、とても飲めそうにない。
あとは…。
…私が、準備しなきゃ…。
メイクもいつもより念入りにしたい。服も、可愛いものを着たい。
隼人に会うことを考えるだけで、ヨーコは嬉しくも気恥ずかしくもなってしまうのだった。
*
「おっ、隼人今日は早上がりか」
松田が声をかけた。
「ハイ。大事な日なんスよ」とびきりの笑顔で隼人が答えた。
制服から、楽なTシャツとジーンズに着替える。
Tシャツは、ヨーコが選んでくれたものだ。
真っ白な生地に、金のインクで飛行機のイラストが描かれている。
飛行機の後ろには真っすぐのびる飛行機雲。
『飛行機と雲って、隼人みたい』
ヨーコは、そう言っていた。
『力強くて、真っすぐで。隼人そっくり』
そうかなぁ、と隼人は照れた覚えがある。
…それは、どちらかというと、俺じゃなくて…。
とにかく、このTシャツは大切な日だからこそ着る、お気に入りなのだ。
「大事な日って何だい?」松田がにやけながら聞いてきた。
「彼女の誕生日かなんか?」
「おっ、松田くん勘良いですねぇっ」
隼人は感心した。
松田はフフン、と胸をはる。
「男にとっての大事な日なんて、大体がソレさ…で、どうなの?隼人の彼女。
お前のことだから、選んだ彼女はべっぴんさんなんだろっ?」
隼人は、大きく頷いた。
「俺にとっては、世界一可愛いです」
「おおっ!いいねぇいいねぇ!!隼人、オトコマエっ!」
松田が誉めはやした。
ヨーコのことを考えると、隼人はでれっと照れてしまう。
どうして彼女をこんなに好きになったのか、それは隼人にもよくわからない。
今まで付き合ってきた女性は、みんなエレナのようなタイプだった。
けれど、警察官になり、ヨーコを一目見た瞬間、全てが隼人の中で変わったのだ。
特に美人という訳でも、気立てがいいという訳でもないヨーコ。
しかし、彼女の無垢で飾らない笑顔は、隼人を奥底まで照らしだした。
まるで、今日の太陽のように…。
「じゃ、あがります」
松田に別れの挨拶を告げ、自転車にまたがった。
昔はバイクに乗っていたものだが、今は自転車が心地よい。
朗らかな気分で、隼人はペダルを漕ぎ、風を切った。
*
「何だとぉ!!」
ガッシャーン。
グラスが床に叩きつけられた。
中に入っていた赤ワインがこぼれ、白い床に血のように広がる。
キレている男を取り囲む仲間達は、恐ろしさに一歩ひいた。
ここは、廃墟となった小学校の理科室。
薄暗い中に、使われなくなってドロドロになったフラスコや人体模型が、うっすら見える。
「酒井!もういっぺん言ってみろ!」
椅子に座る、スキンヘッドのボス的人物――臼田が、怒鳴り声を上げていた。
酒井と呼ばれた、グリーンの髪のひょろい男は、冷や汗を大量に流しながら、必死に弁解しようとしている。
「西公園界隈を…う、奪われましたっ」
「誰に!?」
臼田が唾を飛ばしながら叫ぶ。
目は見開き、今にも飛び出てしまいそうだ。
「ひっ」
酒井が悲鳴を上げて後退りしたが、周りの仲間達に押し戻された。
「誰が西公園を奪ったんだ!?」
臼田が怒鳴り散らした。
あまりの大声に、仲間達はみな縮み上がり、半分割れてしまったような窓がビリビリと音を立てた。
「…ブルーシャークの奴らです」
酒井が告げた。
「ブルーシャーク!?」
臼田が聞き返す。
「奴ら、戻ってきやがったか。この界隈に…」
エレナは緊張した面持ちで、ボスを見つめた。
彼が今、何を考えてるのか、エレナには解るような気がした。
「隼人を呼び戻せェ…」
臼田がうなった。