夜明け
岩波が署に戻ったのは、もう日が変わってしまった深夜だった。
薄暗いフロアには、まだ刑事たちが数人残っていて、岩波の帰りを待っていた。そこには、マドンナや松田の姿もあった。
皆、疲れた表情をして自分の席に座っている。何にも手がつかない状態だ。岩波を見ると、黙りこくったまま一礼した。
岩波も、無言のまま自分の席にドカッと腰を下ろした。
今夜は、とても家に帰れない。この一日で起こった出来事が、走馬灯のように岩波の中に現れては流れ去っていく。
朝、交番で隼人を戒めたのも、今日。
通り魔事件で吉祥寺駅に行ったのも、今日。
マルグレーテと走り回ったのも、今日。
けれど、あの公園に辿り着いてからは、岩波の記憶が断片的になる。
不良達の喧嘩の嵐。泣き叫ぶエレナ。彼女を守ろうと飛び込んでいく、隼人の背中。血だまり。岩波の腕の中で、目を閉じていく隼人────
バンッ!
それを思い出した瞬間、いきなり岩波はデスクを拳で叩きつけた。
しかし、周りの刑事たちは驚かない。何かを壊してしまいたいような衝動は、全員が抱えているからだ。
何を思ったか、マドンナが突然ふらりと立ち上がり、よろよろとフロアから出ていった。
彼女の目的に気付いた松田達が、静かにそれに続く。やがて、フロアの入り口のドアが閉まる、重い音が響いた。
あっという間に、フロアには岩波しか居なくなった。
「俺に気ィ使ってくれてんのか…?」
誰に向かってでもなく、岩波が呟いた。心の中で、仲間達に感謝しながら。
一人になってしまうと、隼人が岩波に託した事柄が、現実味を帯びて蘇ってくる。
『いわなみさん…“あいつら”のこと…』
───隼人。最後まで、エレナとレッドイーグルを心配してたんだろ?
大丈夫だって。俺は、解ってるから。お前が思い描いてた目標は、俺が達成させてやるよ。
『それ、から…ヨーコのこと…も…』
───あぁ。車ン中で、約束したろ?彼女は、立派な刑事にしてみせるからな。俺のことだから、少々厳しく接するかも知れんが。 だから、安心しろ。
『いわ…なみ、さん…』
痛みに耐える隼人の、苦しそうな笑顔が、岩波の脳裏に浮かび上がった。
『…俺の、こと…、
───信じて、くれて。
…ありがと、う…』
───バカやろ。
最後の最後に、そんなこと言わなくたっていいだろうが。
何度も言うけどな。
俺は、お前の言いたいこと、全部わかってるから。
痴話喧嘩ばっかりしたけどな。
お前のことを一番解ってるのは、俺だからな。あぁ、それだけは自信を持って言えるよ。
だから────…
岩波は、気付いていなかった。
長い間、全く縁の無かった、切ない雫が。
きらめきながら、頬を伝ったことに…。
*
「本当に、ごめんなさい…」
エレナが、俯いたまま言った。
月明かりの差す、病室。
岩波は、あの後ふらっと出ていった。恐らく署にでも戻ったのだろう、とヨーコは思った。
由布子は、日用品を取りに、一旦家に帰った。ヨーコが、残りの夏休みを病室で過ごすと宣言したからだ。
そういう訳で、今は少女が二人きりで、月光に照らされている。
隼人の寝顔を見つめながら、エレナがヨーコに、事件のいきさつを話し終えたところだった。
ブルーシャークが、通り魔事件の犯人をレッドイーグルだと勘違いし、喧嘩になったこと。
エレナが、今までの寂しさから逃れたくて、死にたくなったこと。
隼人が、エレナを庇って撃たれたこと…。
「隼人が撃たれたのは、あたしのせいなの…」
エレナは膝の上で、ぎゅっと手を握り締めた。
「ごめんなさい…」
「なんで、謝るの…?」
ヨーコが、鼻声で微笑んだ。
「え…」
エレナは、顔を上げた。
「怒らないの…?恨んでるでしょ。あたしのこと…」
「ううん」
ヨーコが首を横に振り、エレナを見つめる。真っ直ぐな瞳で。その視線は、どこか隼人に似ていた。
「隼人は、エレナを助けたかったんだよ。だから、あなたを庇った…。全部、隼人が決めたことだもん。エレナのせいじゃない」
「でも…」
エレナが困ったようにヨーコを見た。
二人の少女の瞳が、重なった。
「これから頑張ろっ、エレナ。隼人が目覚める日まで」
ヨーコがニッコリした。
「ヨーコ…」
エレナの目は、思わず、また涙を流していた。
───どうして、あたしを許してくれるの?どうして、笑いかけてくれるの?
あたしは、憎まれて当然なのに。
「その代わりっ」
ヨーコが、悪戯っぽく人差し指をピンと立てた。
「隼人のお嫁さんは、あたしだからねっ」
「へ?」
突然のことに、エレナは目をぱちくりさせる。
「エレナには、負けないからねっ」
ヨーコが続けた。
「いくらエレナが隼人を大好きでも。あたし、譲ったりしないからねっ」
プッ、とエレナが吹き出した。涙と混じった、へんてこりんな笑い。
「何を言ってるのかと思ったら…」
そして、笑いが落ち着いてきたところで、ヨーコを見つめて頷いた。
「いいよ、それでも。あたしは、隼人の妹ってことにする」
───隼人。
あなたと一緒にいられるだけでいいの。
家族みたいに、笑いあえる関係であれば…あたしは、すごく幸せだから。
「…」
ヨーコは、まさかエレナからそんな返答が返ってくるとは、思っていなかった。信じられないとでも言うように、じっとしている。
「あたしは、うるさい姑だからねっ」
ちょっぴりおどけて、エレナが笑った。
「ヨーコのこと、苛めるかもよー」
ヨーコは、一瞬びっくりしたような顔をしていた。が、すぐに負けじと言い返す。
「いいもーん。その時は、隼人に守ってもらうから」
「何それっ。ずるいー!」
「ずるくないもんっ」
哀しいはずの病室で、二人の笑顔が溢れだす。
眠る隼人の傍で生まれた、新しい絆。
愛する人を思う気持ちを分かち合う、強い強い絆。
やがて、空が白み始めた…。