不安
午後六時半。
ふいに、桐原家の電話がけたたましく鳴った。
「あっ。隼人かなー?」
ウキウキした足取りで、ヨーコが電話に向かう。
「あ、もし隼人くんだったら、ご飯食べに来れないか、ちゃんと聞くのよ」
台所でトマトを洗いながら、由布子が娘に言った。
「はーいっ」
元気いっぱいに、ヨーコが返事する。何とも微笑ましい、母娘のやり取りだ。
ヨーコは、にこやかに電話に出る。隼人と話せるだけで、彼女は世界一幸せになれるのだ。
「もしもし。桐原ですっ」
ところが、電話の向こうから聞こえてきたのは、隼人の声では無かった。
『桐原ヨーコさん、か?』
低い男の声。
『岩波だ。刑事の』
「あ、岩波さん?」
ヨーコは瞬きした。ベテラン刑事が、何の用だろうか。
「今日は、ありがとうございました」
とりあえず、丁寧にお礼を言う。
しかし、岩波はそんなヨーコの言葉には答えなかった。
『今すぐ───本町総合病院に来れるか?』
「え?」
思わず、ヨーコは聞き返した。
──病院?なんで?
『とにかく、急いで来てくれ』
岩波は、早口で告げた。
『隼人が撃たれた』
「…え…」
ヨーコの口元から、一瞬にして笑みが消え去った。
────今、何ていったの?
『もう、意識が無い。とりあえず、まだ心臓は動いているが…どうなるか、俺にもよくわからん。───とにかく、来てくれ』
そんな岩波の言葉は、混乱するヨーコを、四方八方から殴り付ける。
──意識がない、って。
『まだ』心臓が動いてる、って。
どういうこと───?
頭が真っ白になる。何も答えることが出来ないまま、ヨーコは受話器を取り落とした。
ガッシャーン!!
受話器は、大きな音と共に床に転がる。
「どうしたの!?」
ただ事ならぬ娘の気配に、由布子が驚いてやってきた。
青ざめたヨーコは、震えながら立ち尽くしている。
「───隼人が…!」
*
ヨーコと由布子が、総合病院に駆け付けたのは、七時を少し回った時だった。看護士に案内され、五階まで上がる。エレベーターの速度さえ、今のヨーコにはもどかしい。
エレベーターの扉が開いた途端、ヨーコは弾けるように飛び出した。
明るく、清潔なフロア。真っ正面の突き当たりに、ステンレス製の手術室の扉が見える。扉の上部には小さなランプがあり、『手術中』の表示が灯っていた。
その扉の前を、数人の医師たちが、急ぎ足で行き交う。誰かが、輸血用の血液を追加で持ってくるよう指示しているのが、ヨーコの耳にも聞こえた。
───隼人。無事でいて!!
ヨーコの胸が、不安にドキンドキンと早鐘を打つ。
「桐原さん!」
呼び声と共に駆けつけてきたのは、松田だった。隼人の先輩で、もうすぐ刑事に昇格となる人。顔を合わせたことは無いが、お互い、隼人に話を聞いたことがある。
「松田さん、ですか…?」
ヨーコは、今にも泣き出しそうな顔で松田を見つめた。
「隼人は?どうなっちゃうの?何があったの?」
「…落ち着いて下さい」
松田は、真剣な表情で言った。
「これから、どうなるかはわかりません。生きるか死ぬか…は、隼人の体力にかかってます」
「そんな」
ヨーコは、小さく首を横に振った。
「いや…隼人…」
「隼人も今、手術室で頑張ってるから…」
松田は、ポン、とヨーコの肩に両手を置く。
「桐原さんも、気をしっかり持ってください」
「…はい…」
一応、そう答えたものの、ヨーコには『気をしっかり持つ』自信など全く無かった。とにかく、早く隼人に会いたい。それだけだった。
「ヨーコ。お母さん、お医者さんに色々聞いてくるからね」
由布子が、娘に声をかける。流石は母親だ。不安そうではあるが、てきぱきと動く。
「あなたがしっかりしないで、どうするの。きちんと隼人くんを待っててあげなきゃ。ね?」
「うん…」
ヨーコは、俯いた。その目から、涙が一粒、床に落ちる。
「じゃあ…失礼しますね」
由布子が軽く松田に会釈して立ち去ると、ヨーコはますます気弱になった。何か、重たい黒雲のようなものが、彼女を締め付け続けている。
───隼人。
死んじゃ嫌だよ。
また、あたしに笑ってくれなきゃ嫌だよ。
それに、あたしまだ隼人に『愛してる』って言ってないよ。
お願い。生きて。
頑張って生きて!!
立ち尽くし、涙を流すばかりのヨーコを見て、松田も、どうしようもない気持ちに襲われていた。
マドンナが、エレナに付き添われて現れたのは、そんな時だった。
「筑摩刑事!立川さん!」
松田が、いちはやく二人の姿に気付いた。その声を聞いて、ヨーコは涙でぐちゃぐちゃの顔を上げる。
普段のスーツとは違い、ゆったりと長いカーディガンを羽織っているマドンナは、殴られた部分が痛むらしく、まだちょっと歩くのが辛そうだ。それでも、いつもの気丈さは復活していた。
「私が倒れているうちに、とんでもないことになったわね───立川さんが、全部話してくれたわ」
ヨーコは、ハッとしてエレナに目を向けた。
エレナは、さっきと同じ服装をして、俯いていた。病院内では、ミルクティー色の乱れた髪が、とても目立つ。
しかし、髪以上にヨーコの目を引いたのは、エレナの服だった。スパンコール製のパーカーや、白いキャミソールが、見ていて恐ろしくなる位、真っ赤に染まってしまっている。それは、どう考えても血にしか見えなかった。
「それ…隼人の血、なの…?」
ヨーコは、小さく震えていた。
エレナが、俯いたまま、こくんと頷く。
その途端、ヨーコは大きなものに頭を殴られたような気がした。
───こんなに服が染まってしまうほど、隼人は血を流していたの?
そういえば、つい先ほど医師たちが輸血について話していた。その会話の断片が、エレナの服についた血の色と結合し、ヨーコに迫ってくる。
──隼人。
こんなに血を流して。
痛いよね?
苦しいよね?
「やだ…はやと…」
涙が、止まらない。ヨーコは、その場にしゃがみこんでしまった。
「ごめんね…全部、あたしのせいなの───」
エレナが、小さな声で呟いた。
けれどそれは、激しく嗚咽を洩らすヨーコには、聞こえてはいなかった。