ゼリーと水羊羹
けだるく夕日の差し込む交番の中で、彼はデスクに突っ伏していた。
「あ。隼人また寝てる」
誰かに肩を突つかれ、隼人はだるそうに少し動く。
出張から戻り、まだ一日しか経っていない。疲れ切って寝てしまうのは、当然のことだった。
眠りながらも、青年の口元は僅かに微笑んでいた。
見ているのは、もちろんヨーコの夢。
幻想的な花畑の中で、ヨーコと戯れている夢。
彼女のことを思うだけで、幸せに感じる。
それは、恋の成す不思議な業だ。
「隼人ってば」
耳元で、誰かが名前を呼んでいる。
…ヨーコ。
そう思って、隼人はパッと眠りから覚めた。
しかし、彼を覗き込んでいたのは、ヨーコではなかった。くるくるにウェーブした、ミルクティー色の髪が鼻をくすぐる。
それだけで、隼人の幸せは吹き飛んでしまった。
「何の用だ?エレナ」
呟いた唇に、笑みは無かった。
「何よ、その反応」
その女性が怒った猫のような声を出す。
「せっかくゼリーもってきてあげたのに」
隼人は身を起こして、トンとデスクに置かれたビニール袋を見つめた。
その背景は、女性のゼブラ柄のミニスカートだ。
「隼人の好きなソーダ味。感謝してよねっ」
強気に言うと、彼女はデスクに腰掛け、薄緑色のカラーコンタクトで隼人を見つめた。
「別に…」
隼人はエレナと眼を合わせないように気を付けながら呟く。
「…今ゼリー食べたい訳じゃないし」
「何よそれっ」
エレナは膨れた。
「昔はスキだったじゃない!!どんなに満腹でも、ゼリーだけは別腹って言ってたでしょ!?」
彼女がしゃべる最中に、道行く人は「何事だろう」という目で交番の中を覗き込んでいく。
交番にキャバ嬢のような女がたむろしている姿は、人々の眼に異様に映ったに違いない。
それを感じて、隼人は焦り始めていた。
…もし、ここに「あの」エレナがいると上司に知れたら。
隼人の立場が危なくなる。可哀想ではあるが、もう昔の関係では無くなった今、エレナには早く帰ってほしいと思った。
「何の用なんだ?」
隼人は切り返した。
「まさか俺にゼリー食わせるためだけに来たんじゃないだろ?」
エレナのことだ。
きっと何か、裏があるはずだ。
隼人の中で、疑いの念がムクムクと膨れ上がった。
しかし、エレナはゼリーカップを袋から取出しながら、首を横に振った。
「用なんて無いよ。隼人とゼリー食べに来ただけ」
カップの側面からは、鮮やかなブルーのゼリーが見えている。
そうっと蓋をはがすと、エレナはゼリーを口に運んだ。
真っ赤な口紅とゼリーのブルーが、隼人の目を焼く。強烈な色のコントラスト。まるでそれは、エレナそのもののように感じられた。
「おいしいよっ。隼人も食べようょ」
はしゃぐようにそう言うと、エレナは自分のプラスチックスプーンですくったゼリーを、隼人の目の前に突き付ける。
「ほらっ。早くっ」
スプーンの上で、ゼリーが細かく震えている。
甘いソーダの香りが、交番中に満ちた。
「…いらない」
隼人はゼリーから目を反らした。
「言っただろ。俺、今ゼリー食いたい気分じゃないんだ」
蝉の鳴き声が、うるさい位に響いている。
「あっそ」
あっさり言うと、エレナは再びゼリーを口にした。
ぷるん、としたそれは、冷たく喉を通り過ぎていく。もう一さじすくってから、エレナは隼人を見た。
「…じゃあ、何なら食べたいの?」
「…」
隼人は、不機嫌そうに伸びをしていた。
何も答えない。
「ねぇってばあ」
エレナは、甘ったるい声を出した。
いつも男に甘える時に使う声。
これで「落ちない」男はいない。
昔は、隼人だってその気にさせることが出来た。
それなのに。
今の隼人は、全く動じる気配が無い…。
「ねぇ」
エレナは甘えるのをやめ、声を低く落とした。
「何で?なんで答えてくれないの?」
「…」
隼人は一瞬だけエレナを見やった。
しかし、またすぐ視線を離す。
その綺麗な横顔は、どこか遠くに向けられていた。
「ゼリーは、もう要らないんだよ」
「何で?飽きたから?」
エレナがしつこく追及する。
「いや」
隼人は呟いた。
「今は、水羊羹の方が好きかな…」
エレナが、プッと吹き出した。
「何ソレ!地味ぃー。隼人に似合わなぁい」
「…」
「水羊羹なんてさ、おじいちゃん臭いじゃん!趣味おかしいって、隼人」
けれど、隼人は少しだけ口元で微笑んだ。
どうして、そんな表情になったのかは自分でもわからない。
ただ、それを見て、エレナの胸がどきん、と鳴ったのは事実だった。
「お前、水羊羹とか知らねーだろ」
隼人が言った。
「ゼリーより地味に見えるけどょ、水羊羹の方が甘いんだよ」
「ふぅん…」
納得しきれない顔で、エレナはゼリーに目を戻した。まだ沢山余っている、ブルーのゼリー。
しかし、彼女はそれをデスクに置くと立ち上がった。「また来るね」
急いで言うと、そそくさと交番を出ていく。
振り替えることもしなかった。
「ふぅ…」
エレナが行ってしまうと、隼人は息をついて椅子の背にもたれた。
なんだか、ひどく疲れた。それに、このゼリーの酷い臭いときたら…。
「あっ。隼人がゼリー食ってる」
キキイッと嫌なブレーキ音がした。
交番の前で、1人の警官が自転車を止めたのだ。
短く刈り込んだ髪。
まだ若いが、少し年がいっているようにも見える、西郷隆盛に似た人物。
「松田さんっ!」
隼人は弾かれたように立ち上がった。
「旨そうだなぁ。俺にも食わせろよ」
松田は入ってくるなり、サッとゼリーを取り上げた。「うん、うまい。暑い日はこういう涼しげな甘味が良いなぁ。なっ、隼人」
「はっ、はい、松田さん」まさかエレナの食べ残しだとは言えず、隼人は凝り固まっていた。
少し年上の同僚・松田は、この秋から本町署の刑事に昇格することになった。
その気さくな人柄から、隼人も尊敬している。
「松田“さん”はやめろよ、堅苦しいからさ」
松田がゼリーを完食してから、隼人に笑いかけた。
「仲間なんだし、呼び捨てで良いよ」
「呼び捨ては、ちょっと…さすがにムリっす」
隼人は苦笑いした。
「じゃあ、松田“くん”にしよう。それなら良いだろっ?」
松田があっはっは、と笑う。つられて、隼人もニッコリした。
夏の日差しは、けだるく交番を照らしていた。
エレナは、まだ去ってはいなかった。
遠くから、しばらく交番を見つめていた。
しかし、やがて俯くと、背を向けて歩きだした。