届かぬ想い
*
アルコールランプの朧気な灯が、ゆらりと少女を映し出した。明るく染め上げた髪は乱れ、柔らかく散って、少女の肩にしどけなく垂れている。
「いや…」
真っ赤なルージュをひいた唇から、ただ一言だけ言の葉が洩れた。
そこはかとなく背中が小さく震えてしまうのは、寒いからではない。少女は、何とか震えを止めようとして、自分自身を抱き締める。
乱れた髪の一房が目に入った時、彼女はビクッと硬直した。その髪の色が、少女の眼を焼いていく。忌まわしくて、でも愛しくてたまらない色。好きだからこそ、その色に裏切られたことを恐れた。
───ミルクティーのような、黄金色───。
少女は、その髪の一房を握り締め、小さく嗚咽を洩らした。
大好きだったもの。この世で一番大切だったもの。
同じ髪色の『彼』。
彼がいたから、泣かずに済んでいた。──独りぼっちの夜も、空しくてたまらない朝も。
彼がいたから、笑えていた。独りではないと感じられた。温かい気持ちになれた。
彼は、少女の道しるべだった…。
けれど。彼は変わった。
彼は、『あの事件』である刑事と出会った。それを機に、別の新しい道を見つけた。
──自分も刑事になるという道。
少女は、最初はそれを信じていなかった。彼の言いだしたことは、あまりに突飛で、あまりに現実味がなかったから。
でも、彼は本気だった。夜の街に出ることを止め、酒も煙草も断ち、一生懸命に勉強し始めた。目付きが真剣なものに代わり、少女と同じだったミルクティー色の髪は、いつの間にか漆黒に染まった。
彼は、もはや少女の道しるべではなくなった。ゆっくりではあるが、確実に遠く彼方へ離れていった。
──別れの言葉は、無かった。
しかし、それは別れに等しかった。少女は、彼に付いていくことが出来なかった。彼の新しい道は、少女の生きてきた道と、あまりに違いすぎたから。
二人は、いつの間にか会わなくなった。
けれど、少女は信じていた。いつか彼が戻ってきてくれることを。
寂しくて、毎日泣いた。独りっきりの夜が怖かった。『彼』の身代わりを、色々な男達に求めた。毎晩街に出て、一緒に夜を明かしてくれる誰かを探した。
しかし──誰も、『彼』の代わりにはならなかった。どの男も、少女の身体目当て。少女の道しるべには程遠かった。
だから、彼女は待ち続けた。彼が戻ってきてくれるのを。それは、儚い望みに終わったけれど…。
今、ランプの淡い光の下で、少女は一人ぼっちで踞っている。
彼女の眼差しは、先刻彼が出ていった扉へと注がれていた。
立派な警察官になった彼の横にいたのは、いかにも真面目そうな、高校生の女の子だった。その子は、彼と同じ、黒い髪をしていた…
「いやよ…」
少女は嗚咽の中から小さく叫びを絞りだした。
「隼人の隣にいるのは…あたしだったのに…」
少女の中に蘇るのは、とろけてしまいそうに優しい隼人の囁きと、あの女の子の洩らしていた甘い声。
───昔の隼人があったから、今の隼人があるんだよ。全部ひっくるめて、あたしの大好きな隼人なんだよ───
それは、女の子が発した言葉。
「あたしだって…そう思ってるよ…!!」
少女は叫び、顔を膝に埋めて、ひっそりと泣き続けた。ほんの少し前までは、ああして抱き合い、温もりを伝えあっていた相手。遠くへと行ってしまった相手。
いつでも顔を見られるから、いつでも言葉を交わせるから、逆に少女の心は締め付けられる。
毎日、四つ角からこっそり交番を覗き、彼の横顔を見ていた。真面目に仕事をし、社会の役にたとうとしている隼人。それに比べ、ただ暴れることしか出来ない自分。
彼が、羨ましく、恋しかった。そして、彼を見つめるたび、『彼の想いはもう自分に向けられてはいないこと』を痛感した。
少女は、昔と変わらず、彼を想っているのに。こんなにも強く、彼を求めているのに。その悲痛なまでの感情は、彼に届くことはない。
想いは、少女の中で膨らみ続け、もう臨海地点に達していた。
「────すきなの。あなたが、誰よりも…!!」
だから、戻ってきて。
あたしを、慰めて。
独りにしないで…。
少女──エレナは、アルコールランプの淡い光の群れに紛れて、自分が今にも消えてしまうのではないかと思った。
──でも。消えてしまった方が、楽かも知れない…。この狂おしいまでの気持ちから、逃れるために…。
エレナが、そう思った時だった。
ふいに、アルコールランプの炎が一斉に揺らいだ。どこからか吹き込んできた新鮮な風が、少女の髪を撫でる。理科室中の電気が点けられ、部屋は急にパアッと明るくなった。
「誰かいるぞ!捕まえろ!」
「…?」
膝の間から顔を上げたエレナが目にしたのは、警察官の群れだった。先頭には、スラリとした背格好の美女が優美に立っている。どこか『峰不二子』に似ている、とエレナは思った。
その美女が、雅な唇を開いた。
「あなた、立川エレナね?レッドイーグル唯一の女の子…そうでしょ?」
エレナは、突然のことにぼうっとしながら美女を見つめた。泣き腫らした後の、紅い頬のまま。
「…だれ…?」
呟いた少女の声は、擦れ、震えていた。
「何しに来たの…?」
「警察よ。私は刑事の筑摩麗奈。レッドイーグルを摘発しに来たのだけれど、遅かったようね…」
美女が答え、理科室中を見回した。
「まあ、いいわ。あなただけでも十分よ」
「何言ってるの…?」
エレナは、全身を震わせながら訊いた。そして、マドンナの答えは恐ろしいものだった。
「あなたを、今朝の通り魔事件の重要参考人として連行するわ。レッドイーグルの残りの仲間達がどこにいるか、吐いてもらいましょうか」