太陽の世界
*
隼人とヨーコは、お互いの背中に腕を回しながら、並んで理科室を後にした。
隼人としては、もう少しきちんとヨーコを休ませてから出発した方が良いのではないかと思っていた。
しかし、ヨーコはすぐに出発することを主張した。彼女は、無理矢理連れ込まれた忌まわしい場所から早く出たくて堪らなかったのだ。
背中でお互いの温もりを確かめあいながら、二人はアルコールランプの灯る理科室を通り過ぎた。その扉を抜けるとき、ヨーコは背後に人の気配を感じて振り返った。
しかし、それは気のせいだったようだ。暗闇の中に、ランプの青い炎が静かに揺れているのが見えただけだったから。
そのまま長く人気のない廊下を歩き、階段を登る。何度かチラチラと後ろを振り返るヨーコを、隼人はキュッと片腕で抱いた。
『大丈夫。俺がついてるから』
そんなメッセージが、言葉がなくとも伝わっていく。隼人の体温を感じるだけでヨーコは安心できた。
ふいに、二人の目の前がパアッと明るくなる。穴が空き、鉄筋が剥き出しになっている壁から、日光が差し込んできているのだ。
使われなくなって埃の積もった昇降口を通り抜けると、蝉時雨の大音響が二人を迎えた。
「ねぇ、隼人。暑いから嫌いだったけど、夏の太陽っていいねっ。解放された感じがする」
グラウンドを横切り、校門に向かいながら、ヨーコが気持ちよさそうに言った。
「解放、か。まさにそんな気分だよな」
眩しい日差しに、隼人は笑いながら目を細めている。
「俺たちの世界って、こんなに明るいんだな」
二人は見つめあい、フフッと笑いあった。
空の向こうに入道雲がそそり立ち、恋人たちを見守っていた…。
ピリリリリ。
急に携帯電話が鳴ったのは、その時だった。
*
マルグレーテに拓人を見張らせたまま、岩波は庄司家の門の前に立ち、電話をかけていた。
「俺の車を無断で使うたぁ、いい度胸じゃねえか…隼人よお」
相手が電話に出るなり、岩波はネチネチと突っ掛かる。
「どういうつもりか知らんがな、お前にローレルなんて百万年早いんだよっ。ガキにはチャリンコで十分だっ」
『すっ、すいません!!つい使っちゃいました』
電話の向こうで、隼人が弁解した。
「つい、だあ!?」
岩波がボリュームアップする。
「俺がもうちょっと厳しかったらな、お前を窃盗で逮捕してるぞ!!」
『あっ、あのっ、違うんですっ』
いきなり、隼人の声が女性のものに変わった。
「!?」
驚いた岩波は、一瞬携帯電話を落としかける。
『あたし、桐原ヨーコっていいます。隼人に助けて貰ったんです。隼人は通り魔事件で忙しいのに、あたしの為に急いで来てくれたんです。隼人がいなかったら、今頃どうなってたか…。だから、お願いです。彼を責めないで下さい!!」
相手の女性は、一息にこれだけを言ってのけた。あまりに物凄い勢いだったので、岩波が言葉を挟む間すらなかった。
「…話が、全くわからんのだが」
岩波は嫌味っぽく言った。どうも、女性に対する巧い話し方というものが出来ないのだ。
「君が誰だか知らんが、隼人に早く車をよこすよう言ってくれ。緊急なんだ。通り魔を捕まえた。今すぐ護送しないと」
『えっ…!!』
相手の女性───ヨーコの声が、裏返った。次の瞬間、甲高いハイテンションな声が岩波の鼓膜を突き破った。
『きゃーっ!!やりましたねっ!捕まえたんですねっ!早いですよっ、さすが隼人の上司さん〜!!どこの誰だったんですか、犯人は!?朝から気になっててっ。今の時代に黒ずくめだなんて、大胆な犯人ですよねっ。そうでしょ!…あっ、ちょっと隼人、何すんのよっ…あーっ』
電話の向こうから、ガタガタッと争うような音が聞こえた。
『…もしもし…すいません。隼人です』
再び、隼人が電話に出た。どうやら、携帯をヨーコから奪いとったらしい。
「お前の彼女(?)は…何なんだ…?人間じゃないだろ、少なくとも」
ぐったりと岩波が聞いた。
「彼女の超音波的な声のお陰で、俺の耳は完全に破壊されたぞ」
『それは俺のせいじゃ無いッス』
面白おかしそうに、隼人が答えた。
『…ともかく、今から車でそっちに向かいます。場所はどこですか?』
「なあ、忘れるなよ?それは、お前の車じゃないからな。俺の車だからな??」 岩波が念を押した。