罪の告白
「こちらにどうぞ」
岩波が通されたのは、八畳ほどのがらんとした和室だった。日本庭園に面しているので、若い松や紅葉を思う存分眺められる。そこはかとなく、香の匂いが和室を包んでいた。
片隅には、小さな木の仏壇がポツンと置かれていた。扉の中で、庄司祐太の遺影が笑っている。ふさふさした髪の持ち主で、利発そうな顔立ちだ。
「祐太。岩波さんが来てくださったよ」
庄司保が、優しく仏壇に声をかける。
「覚えてるかい?事件の犯人を探してくれた刑事さんだよ」
遺影の中の祐太は、勿論答えることはない。ただ黙って笑っているだけだった。しかし、保は満足そうに微笑んだ。まるで、息子が彼に返事をしたとでもいうように。
そんな保を見ていると、岩波はいたたまれない気持ちになった。
「秋の紅葉は、それは綺麗ですよ」
保が、線香を用意しながら和やかに言った。
「祐太に、季節の遷ろいを見せてやりたくてね。この子が死んだ後、庭に新しく紅葉を植えたんです」
「ああ…あの若い紅葉か」 岩波は縁側まで歩いていき、庭園を眺めた。
白い砂を敷き詰めた地面から、細くなよよかとした幹が斜めに伸びている。夏の今は、瑞々しい青い葉をまとっているが、秋にはきっと美しく色付くことだろう。
「もう二年経つのか…」
紅葉を見つめながら、岩波が呟いた。
「すまんな。結局、あの事件で、俺は何も出来なかった…今だに、祐太くんを殺した犯人は捕まってない」
紅葉の葉が、柔らかな風にそよいで、涼しげにサヤサヤと音を立てた。
「そんなことないですよ」 保は、静かに畳に正座した。
「…隼人君を助けてあげられたのは、岩波さんだけでしたよ」
「…」
保は、隼人のことをよく知っている。隼人は、当初は祐太殺しの犯人ではないかと疑われていた。その関係で、保は隼人と接触する機会があったのだ。結局、隼人は、祐太の事件には全く関係がなかった。むしろ、別の事件の責任を追及されることになったのだが…。
「事件の頃のあの子は、今思い返しても可哀想になるくらい虚ろだった…そんな彼に、生きる喜びを教えてやれたのは、岩波さんだけでした」
「…」
「祐太の事件があったから、隼人君は岩波さんに出会って、今こうして生きてる。真犯人が見つかっていないのは勿論悔しいですが…あの事件は、決して無益ではなかったと、私は思います」
岩波は紅葉から目を離し、保を振り返った。
保は柔和な微笑みを見せた。しかしその表情の奥には、言い知れぬ哀しみが秘められている。息子を喪った悲しみは、時を経ても癒える事はない…。
それを感じて、岩波は深々と頭を下げた。
保は続ける。
「隼人君には迷惑千万な話かもしれませんが」
「?」
「私は───私は、信じているんです。祐太が、隼人君の中に生きていると」
「隼人の中に…?」
「ええ」
保が目を閉じて頷いた。「彼には、ずっと幸せでいてほしいんです。祐太の分まで…」
どこからか、鳩の鳴く声が聞こえていた。
「…祐太君に、挨拶してぇな」
岩波が呟くと、保は厳かに彼を仏壇へと誘った。
ちょうどその時だった。仏壇脇の障子が、スッと音を立てて開いた。岩波と保は、ほぼ同時に顔を上げる。
「おぉ、拓人か」
保が嬉しそうな声を上げた。
そこに立っていたのは、制服を着た男の子だった。高校生くらいだろう。 ガムを噛み、深緑色のネクタイを緩めながら、驚いたように岩波を見つめている。
「おっさん誰?」
少年が声を発した。髪の色や表情は違うものの、どこか亡き祐太に似ている。
「おっさん、は失礼だな」 岩波は眉根を寄せた。
「初対面の人間には、きちんと挨拶しろよ」
しかし、少年はただガムを噛み、岩波を見つめるだけだった。
「拓人。こちらは、岩波さん。祐太の事件を捜査して本町署の刑事さんだ。礼儀正しくしなさい」
保がため息をつき、それから岩波に向き直った。
「すみません、だらしのない奴で」
「そうだな」
「これは、甥の拓人。祐太の従弟です」 *
「もう二年くらい前になるかな…俺さ、ブルーシャークの奴と決闘したことがあったんだ」
ヨーコを見つめ、隼人が言った。
「二年前って…レッドイーグルにいた頃?」
ヨーコが聞き返す。
「うん」
隼人は少し俯きがちになった。
…今まで、まさか自分の昔話をヨーコに聞かせる日が来ようとは、思ってもみなかった。しかし、隼人はもう臆することはない。ヨーコを、彼女の愛を、信じることが出来るから。
「相手は、坂上哲也。今日殺された坂上竜也の、弟だ」
「ブルーシャークのリーダーの…弟?」
ヨーコが心配そうに訊ねる。
「やだっ、隼人大丈夫だったの?ケガしなかった?」「本気で喧嘩したら、俺がケガなんかする訳ねーだろ」
隼人は顔を上げて、ちょっと得意げに笑った。
「まっ、今はもう喧嘩は卒業したけどな」
「…じゃなきゃ、今頃ぶん殴ってるわよっ」
ヨーコがリボンを整えながら、悪戯っぽく隼人の胸をどついた。
「それで?どうなったの?」
「…うん、途中までは普通の喧嘩だったんだけどな」 隼人は、また少し目を伏せた。
「哲也が、ナイフ出してきたんだ」
「えっ…!!」
ヨーコが息を呑んだ。ナイフという飛び道具を出してきたということは、もうそれはただの喧嘩ではない。相手を傷つけるか、もしかしたら殺そうという意志を持った闘いだ。
「そ…それで?」
ヨーコは、おずおずと聞いた。聞くのが怖い気もした。けれど、話の先が気になってしまう。今まで自分のことを語らなかった隼人が、初めてヨーコに聞かせる話なのだ。きっと彼には、ヨーコに伝えておきたい大事なことがある。
「奴が、ナイフを前に突き出して飛び掛かってきたんだ。流石に俺も怖くなって…。それまでも、喧嘩の相手が脅すつもりでナイフを使ってきたことはあった。だけど、哲也は違った。あいつは、本気だった…」
隼人の声がだんだん低くなり、小さくなった。彼の眼は、ヨーコを見ているようで、見ていなかった。昔のことを思い出しているのだと、ヨーコにはわかった。
「あの時…俺は、とにかく刺されないことに必死になってた。でも、逃げるのは癪だった。“弱っちい奴に背を向けた”ってレッドイーグルの仲間から言われるのが、想像しただけで嫌だった」
「うん…」
ヨーコは、小さく頷いた。隼人は、負けず嫌いな性格だ。決して困難からも逃げたりはしない。彼が一番嫌うのは、『逃げる』ことなのだ。
「…けど、そんなのはつまらない意地に過ぎなかったんだ。哲也が向かってきた時、俺はナイフをかわして、あいつともつれあって。そしたら…」
言葉が、そこで途切れた。
「隼人…?」
ヨーコは、不安げに隼人を見上げる。隼人は目を伏せたまま、言葉を探るように瞬きを繰り返していた。
「はやと」
ヨーコは、そっと手を伸ばし、恋人の手を握った。激しく愛し合った余韻で、まだ火照ったように熱いヨーコの掌は、氷のように冷えきっている隼人の指を包み込み、優しく温めていく。
「大丈夫よ」 ヨーコが囁いた。
「どんな隼人でも、あたしは受けとめるから。大好きだから…」
その声に反応して、隼人が小さく頷く。
「ありがと。ヨーコ」
「話せそう?」
「ああ」
彼は、深く息を吸い、それを吐き出すかのように言葉を洩らした。
「気付いた時には、遅かったんだ」
「…」
「縺れあった時、何かがくるったんだ。気付いた時には、ナイフが、哲也の胸に刺さってた…左胸に。あいつは、即死だった」




