その少年の名は
『全部話して…』
───許さないから。
『何も隠さないで…』
キスの合間の熱い息で、ヨーコは隼人に語りかける。
「教えて…あなたが、何をしたのか」
*
「キャンッ!!」
マルグレーテが、高く可愛らしい声で鳴いた。
「何だ今のは!?共謀な犬コロの癖に、そんな声出しやがって──あ、嘘だぞ。噛むんじゃねぇ」
岩波は、マルグレーテに合わせて立ち止まった。
周囲は、夏の午後の日差しで満ちていた。吉祥寺から大分離れてしまった気がする。何しろ、マルグレーテに導かれるままに二時間程走ったのだ。
今、岩波は閑静な住宅街の一角にたたずんでいる。。古くから続いてきた町並みなのだろうか、立派な造りの家が多い。どの家も日本風の木造家屋だ。重厚な瓦屋根の頂には家紋をかたどった鬼瓦。それぞれの家は、長い白壁の塀を持ち、真ん中には堂々たる門までついている。
そんな家並みの中で、マルグレーテはようやくその足を止めたのだ。一軒の屋敷の前にチョコンと座り込み、『ここだ!』と叫ぶかのように一声吠える。
「…ここに、通り魔が潜んでるっていうのか?」
目をパチクリさせながら、岩波はマルグレーテに聞く。
「こんな立派な家に、レッドイーグルが?そんなバカな…」
岩波は、昔レッドイーグルを追った経験から、知っていた。レッドイーグルのメンバーの大半は、家に居場所を無くして飛び出してきた子供達だ。路上やカプセルホテル、漫画喫茶で夜を明かす。稀に実家に住んでいるメンバーもいるが、その生活は荒んでいる。こんなきちんと手入れされた屋敷に住んでいるという例は、見たことがない。
「何かの間違いじゃねぇのか…?」
思わず、岩波は呟いた。とたんに、マルグレーテが目をむき、グルグルと唸り声をあげ始める。
まるで『あたしが間違ってるなんて言わせないわ』とでも言いたげな表情だ。
「わかったよっ。ここなんだな!?」
少々キレ気味に(恐怖混じりで)岩波が言った。
その屋敷の門には、三角型の屋根までついていた。屋根の表面には苔がむし、夏の熱波に負けて茶色く干からびている。良い木を使って建てたのだろう。門からは微かに、優しい森の香りがした。
表札には、「庄司」とあった。
…庄司?
何かが、岩波の脳裏を掠める。
その名前、どこかで…。
テレビカメラ付きのインターホンを押しながら、彼の意識は記憶の向こうへと潜りこんでいった。あれは、二年前だった───。
*
風が、吹き過ぎる。
少年のミルクティー色の髪が、さやさやとそよいだ。
高校生殺害事件を捜査し、レッドイーグルに疑いを持った岩波は、ビルの谷間の公園で、その少年を見つけたのだった。
…手を真っ赤に染めた、空っぽの少年を。
『お前どうした?…その手』
岩波はブランコから身を乗り出し、隣に座っている少年の腕を掴んだ。
『!』
今まで何の反応も示していなかった少年が、びくんと震える。岩波から逃れようと身を引くが、刑事の力強い手は少年を掴んだまま、離さない。
『この手に付いてるのは…血、だろ?』
岩波が言った。
『何をしたんだ?』
『…』
少年は、答えない。唇を噛み締めると、諦めたように身体から力を抜いて、抵抗するのをやめた。
『お前が、殺したのか?』
岩波が聞いた。
『お前が、あの高校生──庄司祐太を殺したのか?』
岩波を見つめる少年の瞳が、わずかに揺れた。
それが何故なのかは、刑事にはわからない。犯した罪を言い当てられて動揺したのか、それとも全く身に覚えのないことを言われて困惑したのか。
少年は、自分にかけられた殺人容疑を認めることも、否定することもしなかった。ただ、黙ったまま、目を伏せる。そのまま、少年はぐったりとうなだれた。 岩波は思わず、助け起こすように彼を支える。
『お前が、やったんだな?』
その言葉は、風となって少年の髪をなびかせた。
『──お前…』
岩波が唸る。
次の瞬間、彼の手が空気を裂いて、バシッと少年の頬を打った。
『っ!!』
少年は声にならない叫びを上げ、地面に転がる。もわっと土煙が立った。
『大人をナメてんじゃねぇぞっ、このガキ!!』
岩波が、少年の頭上から怒鳴り散らした。
『黙ってたらそれで済むと思ってんだろ!?そうは問屋が下ろさねぇっ』
岩波は、少年の胸ぐらを掴んで引き付けた。
『っ…!!』
岩波の剛力に喉を絞められ、少年の顔が苦しげにきゅっと歪む。しかし、声をあげることもしなければ、抵抗することもしない。
その表情が、あまりにも幼くて。
───幼すぎて。
岩波は、フッと手を緩めた。
瞬間的に少年は岩波の手から逃れる。けれども、この場から逃げてしまおうという気はないらしく、黙って岩波を見ていた。
『名前は?』
岩波が聞いた。
『それ位は言えんだろ?名前が無い訳じゃなし』
少年の瞳が、再び揺れた。首を絞めてくる程凶暴なこの男が何者なのか、計りかねているようでもあった。
それを感じ取った岩波は、まず自分から名乗った。『俺は、岩波。吉祥寺本町署の刑事だ』
『…刑事…』
初めて、少年が口をきいた。擦れた声は、しかし、空気を突き抜けてはっきりと通った。
『フン。刑事って知ったら態度変えるのか』
嘲るように岩波が呟く。『いいか。同情ひこうとしたってムダだからな?俺はもう、お前を補導するって決めてんだぞ』
少年が、瞬きした。岩波はその時初めて、少年が例を見ないほど綺麗に整った顔立ちをしていることに気付いた。
『…刑事さんさぁ』
少年が呟いた。
『俺から逃げないの?』
『何で逃げる必要がある』 岩波が不敵な笑みを見せる。
『殺人犯だろうがヤクザだろうが、俺は追うぜ。刑事なんだから当然だろ?』
『…』
『お前みたいなヒヨッコから逃げてたら、やってけねーよ』
少年は、静かに岩波を見ていた。しかし、どういう訳か、彼はもう空っぽでは無かった。朝日を受けて、彼の瞳は光を宿し始めていた。
『俺は…隼人』
少年が名乗った。