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許さない


「おいこらっ、犬コロ!止まるんだ!俺の言うことを聞けッ」


岩波ががなりたてる。

しかし、その犬───マルグレーテは、全く聞く素振りを見せなかった。それどころか、鋭い目を光らせながら、恨めしそうに岩波を睨み付ける。


「な、なんだ?その目はっ」

 相手が犬だというのに、いや犬だからか、岩波はたじろいだ。

 先刻、いやというほど尻を噛まれた。痛いわ、恥ずかしいわ、ズボンも履き替えなければならないわ、もう二度とあんな目には遭いたくない。仕方なく、岩波はマルグレーテに従うことにした。



 あの岩波にとって屈辱的な『噛み付き事件』の後、駅ビルで『血の匂い』を嗅がされたマルグレーテは、その場で二、三回ぐるぐる回ったかと思うと、すぐに地面に鼻をこすりつけ、匂いの痕跡を辿りはじめた。そのスピードは普通の警察犬よりもはるか速い。手綱を握る岩波は、マルグレーテについていくのに小走りしなければならない程だ。噛み付く癖さえなければ、最高の警察犬の一匹と言えるだろう。


 マルグレーテは岩波を引っ張りながら、あちらの道からこちらの道へ、こちらの道からあちらの道へと、迷うことなく進んでいく。商店街、住宅街、大通り、細い路地。岩波とマルグレーテが駆け抜ける度、道行く人々は何事だろうと振り返った。ものすごいスピードだ。血の匂いは、それだけ強い痕跡を残しているのだ。


 タフな岩波も、さすがに息が荒くなってきた。しかし、少しでも走る速度を落とすと、マルグレーテがぐいぐいと引っ張る。その強さに、岩波は何度も前につんのめった。


「おいっ、待てっ。待てったら!!」

 岩波は叫ぶ。しかし、マルグレーテは止まらない。口を開け、舌を垂らし、ハッハッと興奮した息遣いを見せている。そして、ちぎれるくらい尻尾を振っている。まるで、犯人を追うことを楽しんでいるかのようだ。


 「くっそおっ。犬コロになんざ負けねぇぞ!!」

 岩波は怒鳴った。


 …ハタから見れば、かなり怪しい人間である…。



「やめてええぇぇっ!!」

 ヨーコの金切り声が、理科室中にこだまする。


 臼井の拳は、真っ正面から隼人の顔面に飛んでいく。


「いやあっ!!」

 ヨーコは無我夢中で身を乗り出した。少しでも隼人に近付けるように。


 ボグッ。


 鈍い音がした。

隼人が跳ねるように立ち上がると同時に、臼井の身体が宙を飛ぶ。一連の動きは、あまりに滑らかで、スローモーションを思わせた。


 ドサアッ!!


 派手な音を立て、臼井が床に転がった。うつぶせに倒れ、ぴくりとも動かない。


「ひいぃっ!!」

 後ろで様子を見守っていたレッドイーグルのメンバー達は、悲鳴を上げて後ずさった。


「…次の相手は誰だ?」

 隼人が、切れた唇から流れ出す血を拭いながら言った。臼井に殴られる寸前で身をかわし、逆に相手を投げ飛ばしたのだ。

右頬からも血を流している。その眼光の鋭さに、レッドイーグルは震え上がった。

 臼井は、グループの中で一番強靭な体格の持ち主だ。そんなリーダーが倒された今、隼人に抵抗しようとする者は誰もいない。我先にと、理科室を駆け出ていく。

あっという間に、アジトはがらんどうになった。

残っているのは、気絶して倒れている臼井だけだ。


 隼人はかがみこんで、臼井のジーンズにぶら下がっているチェーンに手をかけた。チェーンから、スルリと何かを引き抜く。隼人が振り向いた時、それが鎖の鍵であることをヨーコは知った。


「ほら…」

 隼人は、ヨーコの足元にかがみこんだ。カチャカチャッと鍵の回る音がして、静かに鎖が外れる。


「ありがと…」

 弱々しく擦れた声で、ヨーコは微笑んだ。その身体は、まだ少しガタガタと震えていた。ゆっくりと足を鎖から離し、立ち上がる。


「本当に大丈夫か?」

 隼人は、不安げに聞いて、手を貸そうとした。ヨーコが、ふらふらしているように思えたからだ。

しかし、ヨーコはその手を止めた。

「大丈夫」 

顔中でニッコリして、そう告げる。

「こんなことでナヨナヨしてたら、とてもじゃないけど刑事になんかなれないよっ。あたしのことは、気にしないで」


「…ヨーコ」

 その笑顔が『貼り付けられた物』のような気がして、隼人は伸ばしかけていた手をひっこめた。

 一方、ヨーコは服の埃を、勢い良くパンパンッとはたく。おかげで、隼人も埃を浴びた。

「帰ろっ。隼人も、まだ仕事途中なんだから。早く戻んないと怒られるよっ」

「怒られねーよ」

 隼人が言った。

「俺、遊んでたわけじゃねえもん。これも警察官の仕事のうちだろっ」


「それでも、よ」

 ヨーコが強く彼を見つめた。

「今度は、通り魔の方を片付けなきゃ。…隼人にしか出来ない、大切な仕事でしょ?」


 その刹那、隼人の唇がピクッと動いた。


 …隼人にしか出来ない、大切な仕事。


 その言葉は、今まで何度もヨーコの口から語られてきた。ヨーコが、仕事に向かう隼人を勇気づけるために使う言葉。大好きな彼が、精一杯働くことができるようにと祈る言葉。別れ際に、必ずヨーコが囁く、隼人にとっての『御守り』。


 しかし、今は。

今は、その言葉から、いつもの暖かさが感じられないのだ。考えたくない『ある可能性』に思い当たり、隼人は怖くて怖くてたまらなくなる。


「ヨーコ、お前もしかして…聞いたのか?」

 

「何を?」


「…」

 隼人は、口籠もってしまった。自分らしくないとイライラしながらも、いざ聞こうと思うと出来ない。自分の過去を、ヨーコが知るのが怖い。知られた後の、彼女の反応が怖い。この世で一番大切な人が、隼人の前から逃げていってしまうのではないかと思うと、苦しい…。


「隼人…」

 隼人が何か言う前に、ヨーコが彼の名を呼んだ。ゆっくりと、その冷えた手を隼人の傷ついた右頬にあてる。そのひんやりとした感覚は、彼の背骨をゾクッとさせた。

 ヨーコはちょっと背伸びして、隼人の頭を抱き締める。そして、その頬に、そっと唇を寄せた。

 初めてヨーコから仕掛けたキス。不器用だけれど、ふわふわとマシュマロのような優しい感触を隼人に与える。薄いピンクのルージュが、ちょっぴり隼人の頬に移った。


「ごめんね…」

 ゆっくりと唇を離しながら、ヨーコが呟いた。

「全部、聞いちゃった。昔の隼人のこと…」


「…」

 覚悟していた瞬間が来たな、と隼人は思った。確かに、ずっと隠し続けてはいられないことではあった。いつかは話さなければならないと思っていた。

 しかし、それがまさかこんな形で伝えることになろうとは…。 


「…ごめん」

 隼人は俯いた。

「俺、本当は…ヨーコが好いてくれるような人間じゃないんだ」


 コンクリートの天井から、ポタッポタッと水が落ちた。


「俺、中学もろくに行ってないし。毎晩ケンカして、金巻き上げてた。…嘘じゃねぇよ」


 信じられないという顔で隼人を見つめていたヨーコの肩が、びくっと震える。それを見て、隼人はもうどうにでもなれという気持ちになり始めた。彼女の中での『隼人』というイメージが崩れ去ってしまったのなら、もう、何も隠すべきことはない。全て喋ってしまいたい、と思った。


 しかし、いざ口を開こうとすると、言葉が出てこない。全てバレてしまっているというのに、自分を正当化してしまいたくなる。自己を美化し、まだヨーコに好かれようとしている自分がいる。

 もどかしさと情けなさで、隼人は一杯に満たされていた。


 すると、ヨーコが再び唇を寄せてきた。今度は頬ではなく、隼人の唇に重ねる。まるで、隼人の口から出てこない言葉を吸い取ってしまうように。


 そうしたまま、長い時間が経った。ヨーコは、息をつぐために唇を離す。ヨーコと隼人、二人の瞳の中に、お互いの姿が映った。

「全部喋って」

 ヨーコが囁いた。そよ風の如く耳元を吹き抜けたその声は、しかし、凜と力強かった。

「あたし、隼人に隠し事されてたのが一番許せない…」


「…ヨーコ」

 

「教えて。…昔の隼人のこと。今の隼人も、昔の隼人も、大好きでいられるように…」


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