自分の道は自分で切り開く
ギィギィと軋む縄の音と、潮の香。
どんどん遠くなっていく岸の灯を眺めて、私はそこでようやく安堵の息をついた。
乗り込んだのは。夜に出港する質素な大型船。どちらかと言えば荷を運ぶついでに人を運ぶことがメインのようで、客室として割り当てられた部屋には女性や子供、老人が雑魚寝できるようになっているだけの粗末なものだ。
普段侍女たちが洗って干してくれた、ふかふかのシーツに柔らかいベッドで眠っていた私には、それはそれは新鮮な経験だ。けれども少しも嫌だなんて思わない。
だって私は、自由の身になって新大陸に行くのだ。
そこで私はパン屋を開いて、つつましい生活をしながら、自分の事は自分で決めて生きていくのだ。
小さな頃から、沢山の楽器を習って、令嬢らしい刺繍や絵画も習ったけれど、どれも全く好きにはなれなかった。
代わりに私が興味を持ったのは、パン作り。母が病気で死んでしまった頃、我が家にやってきた料理長が焼いてくれるパンがとても美味しくて。厨房に遊びに行く内に、私はパン作りに夢中になった。
今では彼がその腕をみとめて、私を第一の弟子と言ってくれるほどまでに成長した。
もちろんそんなことをしている令嬢なんて、私以外に居ないし、お父様や継母はいい顔はしない。
それでも彼らがそれを禁止しなかったのは、私はいずれ家のために嫁いで、その先でそんなことを楽しむことさえできなくなると知っていたからだ。
生家は、由緒があって広大な敷地を有するものの、政治的にも経済的な立場としても、さほど重要な位置に着くことができない、いわばパッとしない伯爵家だった。
数年前、わが国では王位をめぐる大きなクーデターが起こり、当時の国王陛下が敗北、失脚することとなった。
代わりに王位についたのは、当時の国王の弟だったけれど、力が弱くどちら側にも着くことも求められなかった我が家にはあまり大きく関わる事もなく、私自身も王様が変わったのね?というくらいにしか認識はなかった。
しかし、それが大きく自分に関係して突如として降りかかってきたのは今から2年前の事だった。
新しい国王には、クーデターの前から忠誠心の厚い腹心の男がいた。
私よりも20も年上の侯爵で、妻はすでに4人いたけれど、皆が結婚して2.3年ほどで病死しているらしく、不穏な噂しか聞かない。
その男が突如として、私を亡くなった4人目の妻の後妻に指名してきたのだ。当時の私は16歳になったばかり、流石に若すぎるという事で2年の猶予を与えられた。
私が18歳になる日、その日に私はその年老いた恐ろしい男と結婚をさせられるのだ。
それがつまりは3日後。明日には諸々の準備のために侯爵邸に移る予定となっていた。
私をかばってくれる者は我が家には一人もいない。母は早くに亡くなってしまっているし。継母と10歳の妹は私の事には関心もないし、父はこれを機に侯爵に取りることができると、希望を持っている始末だ。
どうせ嫁いでも、2、3年で娘はお払い箱となり殺されるのに・・・。
2年間、この日を狙っていた。自分の身は自分で守らなければ。
世間知らずに見せかけて、使用人達から色々な事を学んだ。
護身術程度の剣術も身に着けた。
今日から私は伯爵令嬢のリリーシャを捨てて、平民のリリーとして新しい人生を生きていくのだ。
甲板のヘリについていた肘を持ち上げて、私は遠のいていく光の塊に背を向ける。
さようならわが故郷、大した思い入れはないけれど。
「ごめんね、ロブ」
最後の最後まで、一緒に来ようとしてくれていた、護衛の侍従の顔を思い出す。
きっと今頃、馬を連れて屋敷の木立の中を右往左往しているのだろう。
叱られなかったらいいのだけど。