暗闇の中でもきっとまたあなたを見つける(1/2)
忍沢陣人は喫茶店で人を待っていた。
腕時計を見た。待ち合わせの時間まであと一分だ。
そわそわしながらウェイトレスにコーヒーのお代わりを頼んだとき、ドアベルがカランと鳴って、一人の男が店に入ってきた。
いかにも歴戦のセールスマンという風貌の男だった。しわのないスーツを着込み、きっちりと髪型を調えている。
陣人が手を振ると、セールスマンはこちらにやってきた。
「アフターライフ社のサキハシという者です。失礼ですが、忍沢様でいらっしゃいますね」
「はい」
セールスマンは向かいの席につき、深々と頭を下げた。
「ご連絡ありがとうございます。改めまして、サキハシです」
「忍沢です。ネットで広告を見たんだけど、あんたが売っているものっていうのは……実際どういうもの?」
サキハシはウェイトレスにコーヒーを注文すると、テーブルの上に両手を置いて指を組み、言った。
「私どもアフターライフ社は、人の寿命を延ばすサービスを提供しております」
聞く者の緊張を自然と解くような、ゆっくりでわかりやすい喋り方だ。
陣人はいぶかしんで聞いた。
「薬とか、何か新しい医療方法?」
「言っても信じられないでしょう。初めてのお客様にはまずお試しプランで仮契約していただきます。一週間、当社は忍沢様がご希望する方の寿命を延ばします。あなた自身でも、あなた以外の方でも可能です。その代金として、当社は忍沢様がお持ちのものをお預かりいたします」
「俺の持ち物っていうと……動産とか不動産?」
「言えません」
陣人はますますいぶかしんだ。
「何を取られるかもわからないのに、契約を結べって言うんですか」
「だがあなたには切羽詰った事情がある。違いますか?」
その言葉に陣人はぎくっとして、自分の結婚指輪を撫でた。
実際、彼は切羽詰まっていた。ネットで見かけた怪しい広告にすがって電話してしまうくらいには。
サキハシはぞっとするほど無機質なビジネススマイルを浮かべ、続けた。
「ですがご心配なく。それが何であれ一週間後、忍沢様が返却をご希望するなら必ずお返しいたします」
陣人は意を決して言った。
「本契約を結ぶかどうかは一週間後に決めればいいんですね?」
「左様でございます。どうかお気を楽に。クーリングオフ可能ですから」
サキハシはアタッシュケースから書類を取り出した。
「では、こちらの仮契約書を」
陣人はそれを見て、いよいよおかしなことになってきたぞと思った。
コピー用紙に魔方陣めいた奇妙な文様が書かれているだけで、文字などは何もないのだ。
「この用紙の真ん中に手を置き、寿命を延ばして欲しい方の名を口にしてください」
陣人はバカバカしいと思いつつも言われた通りにした。
サインやハンコなら悪用されるのが怖いが、これならその心配もない。黒魔術ごっこに付き合ってやろうじゃないか。
「忍沢白枝」
陣人が妻の名をつぶやくと、サキハシは再びあの不気味な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。では一週間後のこの時間、またこの喫茶店でお会いしましょう」
サキハシは二人分のコーヒー代をテーブルに置き、店を出て行った。陣人からは仮契約書以外、何も受け取らずに。
陣人はそれを見送った。自分が世界一のバカになった気がしていた。
ウェイトレスが陣人のカップにコーヒーのお代わりを注いだ。
それを口にしたとき、陣人は顔をしかめた。味がしない。
(何だこりゃ? 薄いコーヒーだな)
陣人は憤慨したが、店にクレームをつけるのも面倒だったので、さっさと席を立った。
喫茶店を出た陣人は、白枝が入院している大きな市立病院へ向かった。
受付で名乗り、妻がいる病室へ向かう。
病室に入ったとたん、陣人は息が止まりそうになった。
白枝はベッドにいなかった。色々なチューブや呼吸器などを自力で外し、窓辺に立って窓の外を見つめている。
振り返った白枝は十代のころのように瑞々しく、健康的な顔色をしていた。
陣人はぼんやりしていた。目の前の光景が現実のものとは思えなかった。
「白枝……体は……」
どうにかそれだけ言った。
白枝は患者着のまま陣人のほうへ走ってきて抱きついた。そして嬉しそうに呟いた。
「わからないけど、治っちゃったみたい」
陣人はわけもわからず白枝を抱き締め、泣いた。
* * *
医者は驚き、さかんに首を傾げていた。
不治の病を患った白枝は医者にも見限られていた。「持ってあと一ヶ月、早ければ明日にでも……」というのが診断だった。
それがある日、何の前触れもなしにまったくの健康体となっていたのだ。
病院側は学会に報告したいと白枝を調べようとしたので、陣人は急いで彼女を自宅へ連れ帰った。
お姫様を助け出す王子様になった気分だった。
退院した翌日、陣人と白枝は自分たちの喫茶店へ行った。
喫茶店を持つのは二人の夢だったが、新婚時代に空き店舗を買った直後、白枝が病に倒れたのだ。
ずっと放置していた店を掃除した。
陣人はさかんに白枝を気遣ったが、白枝は少女のようにはつらつとしていた。よく食べて、よく働き、よく眠った。そしてベッドの上では陣人を圧倒するような熱情を見せた。
三日目の昼下がり、ようやく掃除が片付いた。
陣人と白枝はカウンター席についてドーナツを食べていた。白枝が作った試作品だ。
白枝は幸せそうに微笑んだ。
「おいしいでしょ! お母さんがよく作ってくれたやつなの。店で出してもいいと思う?」
「うん? うん」
陣人は曖昧に微笑み、あんとクリームの入ったドーナツを飲み込んだ。
まるで泥を噛んでいるようだ。
サキハシと会った日からずっとそうだった。何を食べても飲んでも、味がまったく感じられない。
サキハシの言った言葉が陣人の脳裏をよぎった。
〝忍沢様がお持ちのものをお預かりいたします――〟
(味覚くらい大丈夫。コーヒーも料理も白枝のほうが味はうるさいくらいだし)
陣人は考えた。
だがあの男は一週間という期限を設けた。
あと四日間――
「陣人?」
白枝に声をかけられ、陣人ははっとした。そしてぼんやりと彼女の顔を覗き込んでいる自分に気付いた。
白枝は不思議そうな顔をし、やがて疑うような目になった。
「どうしたの?」
陣人の胸は高鳴った。
妻に隠し事を持つのは心が苦しかったが、話すわけにはいかなかった。そもそもあんな話をどうやって彼女に信じさせればいいかわからない。
陣人は笑ってため息をついた。
「いやあ、さすがに疲れたよ。こんな大掃除したの久々だ」
「それだけ?」
「それだけだよ。それに嬉しいんだ、本当に……白枝が今、こうして元気でいてくれることがさ。嘘みたいだ。信じられないよ」
白枝は微笑んだ。
「そうだね。私も信じられない」
陣人は笑い返した。
「あのときも再会したあと、こうやって喫茶店でドーナツを食べてたなあって」
二人は同い年の幼馴染だ。しかし小学校卒業と同時に白枝の両親が離婚し、彼女は母親に引き取られて引っ越して行った。
その十年後、いかなる運命の巡り合わせか、陣人と白枝は街中でばったり出会ったのだった。
陣人は初春のある日、舞い散る桜並木の下で白枝を見つけたその瞬間を思い出した。
「再会したあの瞬間、〝やっと見つけた〟って思った。それでやっと気付いたんだ。俺は自分でも知らないうちに、ずっと君を探してたんだって」
「同じだった。私もだよ」
白枝は言った。
「引っ越したあと、いつも街中とか駅で立ち止まって、雑踏をじっと見てた。あのころは何で自分がそんなことしてるのかわかんなかったけど。私、ずっと陣人を探してたんだ」
二人は気恥ずかしそうに笑い合った。再会したあの瞬間のように。
白枝は気遣わしげに言った。
「今日はもう休んでよ」
「まだ片付けが……」
「私ひとりでも何とかなるから。あとはお花を飾るくらいだし」
有無を言わせぬものを感じ、陣人は仕方なく頷いた。
「わかった。そうするよ」
席を立つと、白枝が胸に飛び込んできた。
「大好きよ、陣人」
陣人は腕の中にいる白枝の姿に見とれた。色覚も味覚もなくても、白枝の美しさだけは永遠に損なわれない。
陣人は照れ臭そうに彼女を見下ろし、笑って答えた。
「大好きだよ、白枝」
* * *
二人の喫茶店は開店直後から繁盛した。
最初の目論見をはるかに越える客入りだった。友人たちや親戚も来て、みんなが白枝の回復を喜んでくれた。
夢のように幸せな時間が過ぎて行った。
そして一週間が過ぎた。
* * *
陣人はあの喫茶店にいた。
手を組み、苦悩の面持ちをしていた。
数度話しかけられてやっとウェイトレスに気付き、コーヒーのお代わりはいらないと告げた。
サキハシがやってきて向かいの席についた。
陣人はこの男に殴りかかりそうになる自分を必死にこらえ、押し殺した声で唸った。
「妻に何をしたんだ!」
サキハシは例のビジネススマイルで言った。
「契約の通りです。一週間の期限が過ぎましたので」
白枝は今朝倒れ、昏睡状態となって病院へ運ばれている。
陣人は相手を睨んだ。
「俺から味覚を奪う代わりがあれか」
「はい」
サキハシはウェイトレスにコーヒーを頼み、陣人に続けた。
「お試しプランはいかがだったでしょうか。ご満足いただけましたか?」
「妻を助けろ!」
「仮契約と異なり、本契約ではこちらがいただいた〝あなたのもの〟はいかなる理由があってもお返しできません。絶対に返却不可能とさせていただきます。それでも良いのですね?」
陣人はぎょっとしたが、うなずいた。もはや一刻の猶予もなかった。
「……ああ」
「ありがとうございます。では本契約に進みましょう。基本的には仮契約と同じです。一週間希望者の寿命を延ばすごとに、あなたのものを一ついただきます」
「次は何を奪うんだ?」
「言えません」
「クソッ、またそれかよ。契約書を出せ」
サキハシは書類を取り出した。
陣人はそれに手を置き、妻の名を口にした。
「ありがとうございます。ではまた一週間後にこの店で、この時間に」
サキハシは契約者をバッグにしまい、店を出て行った。
陣人は病院に電話をかけた。
受付の看護師は、白江なら先ほど安定して目を覚ましたと告げた。
陣人体の内側を引っかかられるような焦りが消えるのを感じた。
(良かった)
急いで妻に会いに行こうと席を立ったとき、陣人はめまいがしてテーブルに手をついた。カップががちゃんと音を立てた。
「お客さん? 大丈夫?」
ウェイトレスが駆け寄ってきた。
「いや、ただの立ちくらみです」
言いかけて陣人は唖然とした。ウェイトレスの顔を見つめ、それから店内、自分の手と順番に見た。
目に見えるものすべてが昔の映画のように白黒になっていた。
色が見えない。