未遂女、現れる。
6話です。
チャイムが鳴る前に前回の授業のプリントを適当に流し終え、結局着替えた俺が教室に入ったのは始業の礼が終わった後だった。
ハルちゃんには前もって伝えていたのでお咎めはなし。こそこそと教室後ろの扉から入れば後ろの席の数人の視線が向いただけだった。
昼休みにもなれば運動部の中にはジャージで過ごすやつもいるから、そこまで目立たない。
完全に授業の一風景に溶け込みながらハルちゃんのほわほわした声を聴き流す。
今日も過去の文豪の代表作の授業だ。文法や思想、言葉尻の表現を捉えた授業なんかより話の背景や作者の感情なんかを考える授業の方が好きなので今の現国の時間は嫌いじゃない。
見た目可愛い担任の授業だからというのもある。
昼下がりの陽気に頭を揺らす生徒たちに、人の心変わりの経過を写した作品をハルちゃんが読み聞かせていた。
時に生徒に教科書を読ませ、たまに設問として考える時間を設けながら。
いつも通りの平和な授業だ。
ハルちゃんが話しているのは、なぜ作中の男は老婆とのやり取りを経て自らの信念を変えたのか、という内容だった。
要するに説得力の話だ。
男には信念を変えても行動すべき理由があり、自らの意思を曲げることを後押しされてしまったわけだ。場面ごとに映す情景も男の心理を現している。逆から見れば、男の心理を写すかのような情景描写に合わせて男は心情を移ろわせていたとも言える。
因果関係はどちらから取り上げても成立している。
ハルちゃんはそんなこと言ってないので脳内の戯言だが。
例えば死のうとしていた人間がその行動を変えたのも、結局は死なない状況が揃っていただけの話。
俺があの場で何をせずとも、きっとヤマナシが飛び降りていたかは分からない。ただ、俺という存在が生きるための後押しになっただけの話だ。
そこには俺だからなんて特別な理由はなく、ただヤマナシの心変わりに足る状況を揃えるパーツの一つが俺で代用出来たということ。
そうでも考えていないと、俺があの少女の命の行方を決めてしまったようで今更ながらに気持ち悪くて仕方なかった。
ヤマナシが魔法使いだとバラしたのも、相手が俺だからではなくそこにいたのが俺だけだったからだ。そこになんの意志も介入はしない。
ハルちゃんの声と黒板にチョークが当たる音をビージーエムに、寝るまいと気張っていた授業では延々と昼休みのことを考え続けていた。
全くもってあの未遂女、人に迷惑をかけるのだけは一丁前にやり遂げるもんだ。
結局寝なくとも、現国の授業は欠片も頭に入らないままに終わりを告げた。
「やっさん、なしてジャージ?」
「如雨露が暴れて水被った」
「あー、ドンマイ」
帰宅部の人間が体育の授業もないのにジャージなんて着てたら聞かれて当然だ。
「なんか眠そうじゃん」
「午後イチで頭使いすぎた。現国は好きなんだが、時間が悪いな」
「あー、分かる。数学→昼→文系科目って無理。さっきの授業何言ってるかさっぱりだった」
「整理すれぼ言ってることはそこまで難しくない。設問の時は場面を表す言葉の印象から、何となくどんな心境か整えてやればいい」
「やっさんいつもそんなこと考えながら現国受けてんの?」
「正直あまり聞いてないが、読み取り方はそんなもんだろう」
「の割に頭使うんだね」
「色々考え事だよ。なぁ、お前……」
「ん?」
魔法って信じるか。
「課題、ちゃんとやっとけよ」
「おう!……無理だったら見せて」
「その時は代わりに理科系頼む」
聞ける訳がない。
彼女と約束をしたから、というよりも、俺みたいなのが魔法なんか信じるかと突然聞く方が馬鹿らしい。小学生がサンタを信じるかと尋ねるのとは訳が違う。
俺だってこの目で見てなければ今の自分を馬鹿だと思うし、なんなら今自分で思っている。
何を思ってヤマナシが俺に話しかけてきたのかは分からない。あの非凡で平凡な少女なりに人に話したい部分があったのかも知れない。事実そう言っていたわけだし。捕まった方はいい迷惑だ。
そりゃ勿論あんなこと人に言えるわけもない。現に当事者でない俺自身ですら人に話すのは躊躇われる。
そういえば今にして思えば、どうしてあの時ヤマナシの話を聞いたのか、パンを恵んでやったのかも自分の中で納得いく理由がつけられない。
考え出すと、色々なことが頭の中を止まらずに巡り続ける。
「やっさんどした?眉間こんななってんよ」
指を逆ハの字にして見せる。
「何でもない。眠いだけだ」
「次なんだっけ、物理かよっしゃ」
「羨ましいよ、その理系脳」
「数学ダメだけどねー」
物理法則を無視した魔法。
浮かんだ如雨露に、濡れた制服。
日の光を宿した少女の目。
子熊の飾りの付いた鍵を使わず閉まる扉。
平凡な、黒い瞳。
「んーーー……ダメだ、寝る」
「そんなキツい?おやすみー」
机に突っ伏してみれば頭の中から昼休みの出来事以外が消え去った。
今となっては眠気も治まったが、些細な思考ですら魔法のように誘導されてしまう。
俺の脳を犯すのは現国の授業だけでは足りないってのか、お前は。昼休みだけじゃなく他の休み時間まで、そんなに俺を上の空にしたいかね。
今は同じ建物のどこかの教室で同じ高校生として過ごしているであろうヤマナシ。
思考の迷路の全ての分岐があの少女に収束され、結局午後の授業は微塵も集中することが出来なかった。
なんならその日の夜、スマホを弄っても本を読んでもヤマナシのことが頭から離れなかった。
「夢にまで見るこれはもしかして、恋?そう思いながら一晩悶々と過ごしたウィリアム君なのでした、と」
「勝手にモノローグ付けるな。確かに色々考えてたがあんなことありゃ当然だろう。何でお前今日もいるんだよ」
翌日、屋上にはまた平凡な顔の非凡な少女がいた。
空の下に出るのにポケットの中の子熊の鍵は使っていない。
既に鍵の開いた屋上でヤマナシが待っていた。
「昼休みだけって言ったじゃん。今だって、昼だよ」
ヤマナシが今日は予め持ってきた手元のアンパンを見せびらかす。
「屁理屈じゃねぇか」
「君の専売特許じゃないもんねー」
少女は袋から出したアンパンを、小さな口で頬張った。
ウィリアム・スミスはJK魔女の夢を見るか?