未遂女、生き延びる。
息抜き、開始。
目が合った。
日の色を映した、キラキラと光る目と。
少女は、ぴゃっと叫んで宙から降りた。
それはほんの二十センチ。
屋上のフェンス越し、彼女はフェンスの外の空にいた。
どうやら自殺志願者のようだ。
「…………」
「…………」
鍵を開けなくて済んだ錆びたドアを閉め、給水タンク横の比較的苔や汚れの少ない定位置へ。
右手の如雨露を置いた時、左手にパンを持っていないことに気付く。
あまりの眠さにぼーっとして購買に寄るのを忘れていた。数学の後の昼休みはいつもこうであるからして、単に眠すぎる授業しか出来ない学年主任のせいだ。
しかし購買はもう腹を空かせた獣達で混んでいるだろう。今から行っても無駄に人混みに揉まれるだけだ。
少し空いた頃に残った菓子パンでも買うか。アンパンくらいはあるはずだ。
昼飯は後にするとして、水の入った六リットル如雨露は置いてすぐに持ち上げる気にもなれない。
今日も憎たらしいほど良い天気。雲一つない読書日和だ。
赴くまま、尻ポケットに詰めた文庫本を取り出した。
「え、なにも言わないの?なにか言ってよ。居た堪れないじゃん」
フェンスの向こうから少女の声がする。
暖かい日差しのせいであまりに眠かったのでそのままスルーするところだった。
チラリと目を上げると、少女はこちらをガン見している。
「そこで死なれると迷惑だ。目撃者とやらになってしまうだろう」
「めっちゃ嫌そうな顔するじゃん」
「当たり前だ。何処の何方か存じ上げないが目の前で死なれちゃ迷惑極まりない」
フェンスの陰になっている上靴の色から同学年の一年生だということは分かった。
見たことのあるようなないような、何処にでもいるような凡な女だ。
「えぇ……?中々ショッキングな場面見てそれだけ?私が言うのもなんだけど止めるとかないの?」
全くもってその通り。とても俺が屋上に来なければ一人で自殺する寸前だった奴の言葉じゃない。この女さては気でも触れているんだろうか。
頭を回す糖分が足りてないのかも知れない。
「じゃあ、死ぬならこの迷惑を清算してからにしろ。金は出すからパン買って来い」
少女は金網ををよじよじと登り、えいやという掛け声と共にフェンスを跨いでこちら側に戻ってきた。
白。悪くない。
「何その屁理屈。何でもいいの?」
「適当に二個。センスは自殺未遂女、お前に任せる」
「わかった。文句言わないでよ」
少女はさっき俺が入って来たドアから、校内に出ていった。
ぼーっと日陰で活字を眺めているとさっきの少女が帰ってきた。
ガチャリと重いドアノブが回る音で、朝に一度読み終わっていた小説の世界から引き戻される。
「はい」
投げられたプラ袋を受け取ると、中にはアンパンとメロンパンが入っていた。
「350円ね」
「多くないか?」
少女は自分の手元に残して封を切ったアンパンを指す。占めて百十円が二つと、百三十円が一つ。
「パン買って来いって言ったもん」
取られてたまるかと、パクりと、見せつけるように勢いの割に小さな口で齧り付いた。
なんて女だ。人に迷惑をかけるに飽き足らずタカリである。俺が払わない可能性を一才考慮していない底の浅さに驚きが勝る。
「まぁいいだろう。自殺未遂女に飯を施してやるというのも悪い気はしない」
悪い気はしないが硬貨四枚分軽くなった財布はどこか寂しい。
少女はアンパンを咥えたまま、如雨露を挟んで俺の横にポスンと腰を下ろした。近くもなく遠くもない距離感。自殺未遂者と目撃者の距離感だ。
「そこ乾いてるけど鳥のフン跡だぞ」
「は?先に言え」
少女は一歩分だけ日向にズレて居住まいを正す。その姿はまるで、とてもさっきフェンスの向こうにいたようには見えない、普通の女子のようだった。
「奢ってくれてありがと。あんこあまーい」
「これに懲りたら二度と人前で死のうとするなよ」
「ん。……うん?」
少女は何かに気付いたように、もごもごと咀嚼していたパンを飲み込んだ。
「私が死んだら迷惑だからパン買って来いって言ったじゃん」
「そうだな」
「なんか甘いもの食べたらそんな気なくなったし」
「そうか」
「私、パン買って来損じゃん?」
「パン一つで救われた命に感謝して食え。若い内の苦労は買ってでもしろって諺もあるだろう」
俺もアンパンの袋を開ける。
甘いパンばかりで腹には溜まりそうにないが、背に腹はかえられないか。
「いやそんな諺知らないけど。なんか騙されてる気がする」
眉根を顰める少女はそのままアンパンを齧った。俺の半分くらいの一口だ。
「死んでればそんな気もなかったわけだ。お前今俺に貸し一だからな」
「納得いかねえ」
もごもごと唸る少女だが、餌を蓄えたハムスターのような迫力で睨んでくる。少し茶色がかった髪も相まって、殊更に小動物感が強い。
何を思ってこんな少女が死のうとしていたのか、まぁ、どうでもいいか。
「やっぱり私損してるよ。百歩譲って君に借りが出来たのはいいとして、死んでないから迷惑かけてないもん」
黙殺し、アンパンを食らう。
「死ななかった分、私もパン買いに行かされて迷惑したから話聞いてよ」
黙って聞いていればとんでもない女だ。
「お前、そのパン俺の金で買ってるんだからな?」
「それとこれとは話が別!」
はむッとまた勢いよく齧り付くが、あまり量は減っていない。
「まぁ、いいだろう。お前がパシられた分だけ、屋上にいる間は話くらい聞いてやろう」
食べ終えたアンパンの袋を縛り、メロンパンの封を開ける。腕の時計を見ると予鈴まで三十分はあった。たまには趣向の違う暇潰しもいいかも知れない。
それもこれも、たまたま続刊と間違えて読み終えた刊をポケットに忍ばせていたせいだ。つまり思考を奪う数学の授業が全部悪い。
「なんか、世界、生きづらくない?」
少女は、そんなことを言った。
対戦宜しくお願いします。
気が向いたら更新します。