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二章7 『スローペースはドリームライフ その7』

「待って、待ってくれー!」

 兎追いし、かの山。

 という歌の通り、僕は兎を追いかけていた。

 あるいは不思議の国に旅立つ少女のように。


 リンリンと鈴の音が響き渡る、山の中を。

 きれいだなあと思うけど、それに心を和ませている余裕はない。

 あれはある種、僕の生命線なのだから。




 きれいなバラには刺がある。

 可愛い猫には爪がある。

 そして可愛い兎には、いたずら心があった。


 僕が落ち込んでいる間、兎はじっとしていてくれると思った。

 もしかしたらなんらかの方法で慰めてくれるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのは否定できない――いや、小動物相手に何を思ってるんだお前はというツッコミが聞こえてきそうな気はするが、僕はそれぐらい精神的に追い詰められていたのだ。


 さて。

 実際には、兎が何をしたのかというと。


 キュウキュウと、可愛い鳴き声を発しながら近づいてきて。

 僕の腰のあたりの臭いをクンクンと嗅いで。

 ひょい、ぱくっ。


 ぐいぐいと何かを引っ張られている。

 なんぞやと見やった瞬間。

 するっと紐が解けるのが見えた。

 そう――熊よけの鈴をつけていた紐が、だ。


 さっと顔が青ざめていく。ここはかなり山奥に入り、人里から遠くはなれた場所である。

 つまりいつひょっこり熊が現れても、おかしくないわけで。

 鈴がない今、もしも熊が現れたら――お察しである。

 ガタガタと体が震えだす。今回ばかりはこんな状態でも興奮している余裕はない。


 かくして僕は、鈴を盗んでいった兎を追いかけているわけである。

 地面は滑りやすく、木々の根が至る所を張っている。何度かすっ転んだが、構っちゃいられない。背に腹は代えられない……は少し意味が違うかもしれないが、確かな安全を得るためには多少の代償には目をつむるしかないのである。

 段々と僕の息が切れかけてきたが兎は時折こちらを何度か振り向き、ぴょんぴょんと跳ねるように駆けていく。アイツは僕と違ってまだ全然へっちゃらそうだ。もしかしたら僕のことを『体力のないヤツだな』とか、せせら笑っているのかもしれない。

 負けるものかと気合を入れて足を前に前に動かす。もはや当初の目的を忘れた、意地と意地の戦いだった。


 兎の走力は速いが、僕のことを見くびっているのか逃げられるところをわざわざ何度も立ち止まってこちらを振り向いてくる。

 僕はといえば、負けん気と根性で何度倒れてもその度に立ち上がって追いすがらんと駆け続けている。気分としては二十面相を追う明智小五郎、ルパンを追うホームズ――どちらかといえばモリアーティ教授かもしれない――、である。

 頭脳ではなく身体での戦いであり、身体的に僕が大きく劣っている点は否めないが。

 足がふらつき、頭がクラクラしている。もうまっすぐ走ることもできない。


 周囲への注意力が散漫になっていたのだ。

 そう気づいたのは足場が揺らぎ、身体が宙を舞った時だった。


 あれ、と思った。

 僕には翼はない。したがって、空を飛べるはずがないのだ。

 けれども浮遊感が体を包み込んでいる。

 なぜだ――?


 青い空をぼんやり眺めながら。ぐんぐんと背中側へと強く引かれていく。

 何に? というどうしようもなく幼稚な問いには。

 空飛ぶ鳥を見つけた瞬間に、自身で答えを見つけることができた。


 重力だ。

 地球のありとあらゆるものは大昔の偉い人が見つけた万有引力とかいうヤツで、大地の側に重力でぐぐっと引きつけられている。

 僕らが地面に立つことができるのもそういう理屈らしい。

 林檎が地面に落ちるのも、そういうことだろう。


 地面に落ちたリンゴはどうなるだろうか?

 柔らかい地面なら、そっと――というわけにはいかないとしても、まあ比較的ソフトに受け止められることだろう。

 では、それが固いコンクリートや岩場だったら?

 物体は強い力を外部から加えられると壊れる。学校に通っていなかった僕でもその程度のことは知っている。

 硬い地面に打ち付けられたリンゴは、柔らかな実が衝撃に耐えられずにぶしゃっと粉砕される。トマトだったらもっと悲惨なことになるだろう。


 ――まあ、さっき死にたいと思ったけど。いざその瞬間になると……。


 ぼくはふっと、青空に見せるかのように笑った。


 ――なんも思わないなあ。


 実感がわかないのだ。

 だってそうだろう?

 僕、黒茸は生まれた瞬間にはもう物心どころか、すでに大人になっていた。

 成長という概念すら体感すること泣く。青年期、思春期、幼少期の頃の記憶が一切なく。

 かつ、生みの親の神様は生誕した僕のことをものすごく申し訳なさそうな顔をして見てきていた。


 黒茸さんとしての生活は常に呪いと背中合わせで。

 生きるということそのものより、死なないこと――正確には世界・・を亡ぼさないこと――を意識して慎重に生活していた。気疲れすることも多かった


 まっちゃんっていう好きな人ができたし、てんちゃんっていう仲のいい友達ができた。

 ただ彼女達にはただの一度も触れることができなかった。


 悪くない一生だった――というにはかなり無理がある生涯だった。この瞬間に仮に涙を流すとしたら、それは決して喜びによるものではない。やるせなさ、あるいは情けなさから来るものだろう。


 でもまあ、だらだら長く生きるよりはここですぱっと終わりにした方がいいかもしれない。

 そもそもこんな地雷のような存在を長々と世界に放置しておくのは人々――いや、あらゆる生物にとって害にしかならない。それならば安全に処理するのが森羅万象にとって最良の選択肢と言えるだろう。


 陽光の眩しさにやられて目を閉じる。


 いつもより鮮明に春の陽気を感じた。感覚神経がいつもより鋭敏になっている気がした。

 短い一生なりに様々なことがあった。

 恋人とではないけどデートにも行ったし、ボランティアに参加して、もしかしたら誰かの役に立つことができたかもしれない。

 永遠に続くかと思っていた孤独な一時も今となってはいい思い出だ。


 前頭葉から後頭部の辺りまでを熱っぽい何かにわしづかみにされる。

 頭が……ぼうっとしてる。

 急激な眠気に誘われ、僕はもう何もかもどうでもよくなって、意識をそれに委ねた。

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