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一章17 『僕の日常その16 ―でえと?編―』

 自己嫌悪に陥りそうになったが、実は今はゆっくりしている余裕はない。

 田舎は日が沈むのが早い。そろそろ日が山の稜線にかかりかけている。

「行こうか」

 僕が言うと、てんちゃんはこくりとうなずいた。最初は少し心配してたけど体力はあるようだ。これならギリギリ間に合うだろう。


 歩き始めてすぐ、僕はてんちゃんに訊いた。

「それで、人魚姫の話は?」

 水を向けると「あ、うんとね」と彼女は話を再開した。


「人魚姫さんは、毎日海のみんなと幸せに暮らしてたんだけど。ある日、こんなうわさが流れるの。『人魚姫のお肉を食べると不老不死になれる』って」

 僕はビックリしててんちゃんを見やった。

「不老不死なんて、よくそんな難しい言葉知ってるね」

「ご本、たくさん読むから」

「そうなんだ。好きな本は?」

「吾輩は猫である」

 ミャアと足元でマクロさんが鳴く。心なしか少し嬉しそうな響きだった。


「……夏目漱石の?」

「うん。あと、草枕も好き」


 僕はどう返答していいものやら困った。

「……悲しいお話だよね」

「そう?」

 どうやら僕とてんちゃんの感受性は若干異なるようだ。十人十色というが、存在する人間の数だけ異なる世界の見方が生まれる。そのどれもが間違いということはなく、またどれか一つが正しいということもない。


「てんちゃんはどんなところが好きなの?」

「救いがあるから」

「救い?」

「ユーモラスと終着点」


 僕は心の中で呟いてみた。

 ユーモラスと終着点。

 それはついとなる言葉のはずだが、どこかしらで繋がっているような気がした。上手く言い表せないけど。


「人魚姫さんだけど」

 脱線しても、きちんとレールの上に戻ることができる。それは得難がたい美徳の一つであり、てんちゃんが幼くして習得していることを僕は嬉しく思った。


「『不老不死』になれるって噂を聞いて、驚いた。そんなことお父さんにもお母さんにも聞かされたことなかったから。お父さんはとっくに死んじゃっていたけど、生きていたお母さんにとってもそれは寝耳に水だった」

「海の中だから」

 と口を挟むと、じっとてんちゃんに見られた。

「……前を向いて歩かないと、危ないよ?」

「変なこと言うから」

「ごめん」

 てんちゃんは気にしてないというようにかぶりを振った。

 マクロさんが首を竦めたように見えた。

 それから何事もなく話が再開される。


「人魚姫さんとそのお母さんは海の長老に会いに行って事情を訊くことにした」

「長老って、どんな人なんだい?」

「人じゃない」

「じゃあ、人魚だ」

「それも違う」

 はて誰だろうとしばらく考えてみる。その間、てんちゃんはじっと待ってくれている。


 しかしそうしている内に、目的地に着いてしまった。

「わぁ……」

 今日一番、目を輝かせるてんちゃん。

 影の色に染まった山。その上にぽつんとある昼間と違った柔らかな夕日。

 赤とだいだいと藍のグラデーション、たなびく雲を抱く空の中で、まるい白い日が仄かに明るく輝いていた。


「きれい」

 深みはない、けれどもなんの飾りもない率直な感想。それは僕の心にくすぐったい嬉しさを与えてくれた。

「うん、きれいだね」

 僕達は手すりの傍まで行く。

 大して距離は変わっていないけれど、気持ち夕日に近づけた気がした。


 明るい空が夜空と影の世界に挟まれている。ミニチュアの街は真っ暗だ。手前の木々は火の光に照らされてはっきりと目に映る。


「ここにいると」

 てんちゃんはいつもとは違い、あえて感情を見捨てたような声音で言った。

「なんだか、いつも・・・が夢みたいに思えてくる」


 僕はその言葉の意味を少し考えてから答えた。

「あるいはそうかもしれないね」

 影絵のようなものなのかもしれない。僕達が送っている日常は。


「一番星かな、あれ?」

 てんちゃんが空を指差す。そこには確かにぽつんと小さな白い点があった。

「本当だ。きっと、そうだよ」

 目を細めて僕は眺める。空の中、懸命に瞬く小さな存在。

「きれいだね」


「……いいな」

 羨ましがるような口調だった。僕は不思議に思って訊く。

「何が?」

「お星様。そこにあるだけで、きれいだって思ってもらえて」

 そう呟く彼女の表情は少し寂し気だった。


「……てんちゃんだって、可愛いしきれいだよ」

「わたしはダメだよ」

 あっさりと言ってかぶりを振るてんちゃん。

「どうして?」

「だって、いつか汚くなる。お星様は死ぬ瞬間まできれいだけど、人間は違うんだよ」


 人が死ぬ瞬間――僕はまだ、目にしたことがない。

 黒茸さんとしてこの大地に降り立ってから、僕は生きた人間しか見たことがない。


「差し支えなければ――もしイヤじゃなければ訊いてみたいんだけど」

「なに?」

「人が死ぬ瞬間って、どんな感じなの?」


 数拍の間を置いて。

 てんちゃんは何かを読み上げるように言った。

「できれば自分が死ぬその時まで、見たくないような感じ」

「なるほど」

 夕日が残光を残して、山の向こうに沈んだ。


 田舎の空に、一斉に星が集まってくる。

 どれもきれいだ。

 僕が読んだ本によれば、この明かりの中にはすでに存在自体がこの世から消えてしまった星のものもあるらしい。


 でも人間は違う、死んだら何も残らない。

 幽霊なるものの存在は不確かだ。


「死んだらお星さまになれるかな?」

「さあね」

 僕は空を仰いだ態勢で、肩を竦めた。

 てんちゃんが軽く鼻を鳴らすのが、近くから聞こえた。

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