公爵令嬢は婚約破棄に感謝した。
「マリア・レナード。お前は私の婚約者として相応しくない!」
婚約者、フィリップ・ライスの声が、全校生徒の集まる講堂に響き渡る。
今日は上級生の門出を祝う卒業パーティーの日。
そのおめでたいパーティの最中に、彼は婚約破棄を言い渡した。
にわかに会場がざわめき出した。
巷ではフィリップは、ある貴族の不正を正した正義感のある男と評判なのだ。
その男が婚約破棄とは、と疑惑がこちらに向けられた。
「ええと……一応お伺いしますけど、いいんですの?」
「もちろんだ! 私の最愛のエミリーを陰で虐げるような悪女を我がライス公爵家に引き入れるなどもってのほかだからな!」
ふんすふんすとフィリップの鼻息が聞こえてくる。
その隣で、一見小さくて可憐そうな見た目の女、エミリーが腕に手を絡ませていた。
胸を押し付けられたフィリップは、男性の本能から来る嬉しさを抑えどうにか威厳を保とうと、なんとも形容しがたい顔をしている。
あー……なるほど。確かエミリーという名前はどこかの辺境男爵家に一人いたわね……
私は事情を一瞬で理解した。
「……お言葉ですが、フィリップ様。私、その方のことは存じ上げませんわ。今日はじめてお会いしましたし。存じ上げない方を虐げることはできませんわ。虐げるほどこちらは暇もございませんし」
「何を言ってるの! いつも私に泥をかけたり階段でつまずかせたり変な噂を流したりしてたじゃないの! そんなことするのはマリアさんしかいないわ!」
私が言い終わるや否や噛み付くように反論するエミリー。
典型的な女に嫌われて男に媚びるタイプだ。
こういうタイプは話し合い自体が能力的にできない人間だ。
会場内の空気は、エミリーの弁を聞くや否や、私への同情に変わった。
私はふぅ、とため息をついた。
「そんなことはしていませんが……仕方がありませんね。そういうことならば身を引かせていただきましょう」
私の言葉に、手を取り合って喜ぶ二人。
ざわめきはいっそう大きくなる。
「ただし!」
私の声に、一同は一瞬にして沈黙した。
同時に手招きで、パーティ会場の隅に控えていたレナード家付きの執事を呼んだ。
「レナード家が婚約時に持ち出した持参金は即刻返却していただきます」
「ああ、すぐにでもそうしよう」
はやる気持ちを抑え切れないのか、二つ返事で了承してしまう。
他にも一つ条件を出し、それを婚約破棄誓約書として書き出していく執事と、承諾するフィリップ。
彼はそのまま、誓約のサインも流れるようにしてしまった。
フィリップはエミリーの腰に手を回しながらほくほく顔でその場を後にした。
きっとこの足で、ライス家に婚約破棄と婚約の報告に行くに違いない。
もはや二人の世界で、怒気を孕んだ周りの様子が全く見えていない。
「最後に、この良き日を私たちの婚約破棄などという忌み事で中断させてしまったことを謝罪いたします」
私がやや涙声で頭を下げると、男性貴族たちから次々にハンカチが差し出されたのだった。
同級の友人に支えられながら馬車に乗った私は、大きく伸びをし、足をバタバタさせた。
それは淑女らしからぬ行為だったが、足を引っ張るだけの存在だったフィリップと婚約破棄できたという開放感はそれほどまでに凄まじいものだったのだ。
本当なら会場で嬉し泣きしてしまいたいくらいだった。
そもそもこの婚約自体、ライス家とレナード家の利害の一致によるものだ。
ライス家の財政難を持参金と継続支援という形で埋める代りに、ライス家長男、フィリップをレナード家の入婿にする交換条件だったのだが……
肝心のフィリップは、所謂アホの子だった。
それはもう、自分が入婿でライス家の家督を継ぐのは次男であることを未だに理解できていないほどに。
私が帝王学や領地経営について学んでいるところを見ても、フィリップは「そんなこと勉強しなくていいよ。全部僕がすることになるんだし」と言って、私の頭を抱えさせた。
ライス家の次男はここまでではないので、ライス家がフィリップをお払い箱にするためにわざとやったのではないかと疑った。
しかし、アホだアホだと思いながらも親が決めた婚約者だから、きっとそのうち情がわくだろうから、と渋々相手をしていたのだが、残念ながらフィリップはただのアホの子から正義感のあるアホ青年に進化した。
そこに付け込んだのが男爵令嬢エミリーだったのだろう。
とはいっても、エミリーが誘惑しなくとも他の令嬢と遅かれ早かれ同じ展開になっていたに違いない。
世間的には公爵家は家が傾くことはなく、将来安泰だというイメージだから。
……さて、持参金と支援金がなければライス家は領地経営どころか明日食べるものも厳しくなると思うけど、知ったことではないわね。
今頃ライス家は大騒ぎだろう。
なにせ援助の打ち切りの上に体良く追い出せた穀潰しが、なんの得にもならない縁談を持ち込んだのだから。
……持参金……払えるほど残っているのかしらね……
私は遠くを見つめたが、その口元が緩むのを抑え切れなかった。
それから数年。
ライス家からは婚約破棄の撤回を求められたが、一連の出来事を執事から聞いた父は激怒し撤回を拒否した。
持参金は派手好きなライス夫人が既に使っていたらしく、分割払いで現在も支払われている。
フィリップのあまりのアホさを気に病んだライス公爵は寝込みがちになり、ライス家は次男が継いだ。
しかし財政難に喘いで領内は荒れ放題だという。
フィリップとエミリーは結婚した。というより、結婚せざるを得なかった。
私との婚約破棄誓約書のもう一つの条件、「エミリー嬢と結婚し、ライス邸またはライス領内で暮らすこと」という条件があったからだ。
エミリーにそこまで恨みもなかったのだが、そうでもしないとフィリップが押しかけてきそうだったので条件に入れさせてもらった。
聞いたところによると、母親似のフィリップの浪費癖を、エミリーがどうにかこうにか止めているが、なかなか苦労しているらしい。
お互いを補い合っていて、とてもよくお似合いの夫婦である。
そして私は、というと──
卒業パーティーの顛末をたまたま近くで見ていてハンカチを一番に差し出してくれた伯爵家の三男が、あれ以来何年も通い詰めている。
あの一件で少しは人を疑うようになった父も、「今回はちゃんと相手の人柄も見る」と息巻いているが、父の見極めにこれだけ長く付き合ってくれる彼なら大丈夫だろう。
あの時の婚約破棄がなければ、彼と知り合うことも毎日こんなにも心穏やかに過ごせることもなかった。
「……ありがとう。私、幸せになりますわ」
私は誰とは言わないが、心底感謝したのだった。
続きません。