第1章 6話
【カナタへ
お鍋の中にポトフを入れておきました。ちゃーんとあっためて食べてね。
母さんより】
机に置かれた紙の切れ端を見て、僕はのそのそとキッチンへ向かう。
マッチを擦り、木屑に火をつける。
鍋を火の上にかざすと、香ばしい香りが漂ってくる。
朝7時。
母さんのいない、朝だ。
僕がみっともない泣き顔を見せてから、数日が経った。母さんは最近、朝早くに出て夜遅くに帰ってくる。いつ寝ているのだか、いつご飯を食べているのだか分からないような状態だ。
唇を強く噛む。全部、僕のせいだ。
母さんが働くのはきっと…タイプライタのため。
【タイプライタアなんて要らない。それより母さんの健康が心配だ】と、あの後僕はなんども母さんに話した。でも母さんはその度、ニコニコと笑って言う。
「何あんた!私が、カナタが欲しいもののために働いてると思ってるわけ!?思い上がりも甚だしいわよ〜だ。私は私が欲しいものを買うんだから」
いつもの母さんお得意の軽口で誤魔化されて、そこで話が終わってしまう。
僕は、ふつふうと湧く鍋をじっと見つめる。
「タイプライタアなんて……」
呟く。鍋がヒューヒューと音を立てる。
「タイプライタア、なんて……」
もう一度呟く。鍋から黄金色の液体が溢れ出す。
タイプライタアなんて。
その先の言葉が、僕は言えなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
その日は、怖いくらいに空気が澄んでいた。
ぴん、と張り詰めた雲ひとつ無い空に、太陽がギラギラと輝いてる。
僕はといえば、不気味なほどに明るい通りを、息も切れ切れに駆けていた。
母さんが、帰ってこない。
昨日の朝に母さんが家を出て行てから、もう丸1日が経つ。僕は学校を休み、母さんを探しに行く事にした。
前に母さんからもらった、職場への行き方が描いてある地図をひっつかみ、家を出る。
距離はそこまでなさそうだ。通ったことのない道がほとんどだけれども、不安なんて感じている場合じゃない。
家の前の路地を抜け、大通りに出る道を辿る。ここは母さんがいつも、仕事に行く時に使うルートだと思う。
往来に出ると、行き交うヒトの大群が僕の目の前に押し寄せた。
僕は彼らの合間をスルリと抜け、ずんずんと先へ進む。
「きゃっ!?何この子、半獣人!?」
「気持ち悪っ。親はどこなの?」
半獣人の僕に向けて、心ない言葉が飛んでくる。…当然だ。普通に生活していれば、彼らは半獣人なんて珍獣を目にする機会も無いだろうから。頭では分かっている。でも普段、家でも学校でも聞かないような罵詈雑言を浴びせられ、僕は一瞬だけひるんでしまう。
……でも、今は。
「とにかく、母さんを、見つけなきゃ」
僕は足にぐっと力を入れ、歩みを進める。心ない言葉に対する悲しみよりも、母さんが見つからない不安の方がよほど大きい。
母さん、母さん、母さんーーーーー
気付くと僕は、母さんの仕事場がある一本の路地まで辿り着いていた。
◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い、路地。こんなに良い天気なのに、ここには太陽の光が届かないのだろうか。往来の目に痛いまでの明るさとは、まるで正反対だった。
一歩足を踏み入れると、ジメッとした匂いが鼻をつく。
恐る恐る、前に進む。水たまりが多くて、足がもつれる。目の前をサッと、気持ちの悪い虫が通るのが見える。
心臓が、どくどくと脈打つのを感じる。恐怖と不安と悲しみで、押しつぶされそうになった、その時ーーーーー
「あーれ?半獣人の子じゃん。珍しい」
突然、背後で誰かの声がした。
ビクッと身体を震わせて、僕は恐る恐る後ろを振り返る。
……見ると、獣人の男の人が1人立っていた。
僕の恐怖に歪んだ顔を見て、彼はカラカラと楽しそうに笑う。
「何してんの、こんなとこで?ボウヤ見たいな子供が来るところじゃー無いと思うけど」
「……あ、あの……」
口がガクガクと震えて、上手く動かない。でも、頑張らなきゃ。頑張らなきゃ、母さんの居場所は分からないままだ。
「あ、あの!!ぼ、ぼく、母さんの居場所を、探して、るんです。き、昨日から、ずっと帰ってなくて。こ、こんなこと、今まで、無かったから……」
ズボンの布をぎゅ、と握り締めながら、絞り出すように伝える。喉が熱い。ヒューヒューという音が、止まらない。
獣人の男の人は、ちょっと考えた後、「あ!」という声をあげた。まるで何かを閃いたような声。
「ああ、分かった分かった!君もしかして、【カワヤサン】の息子でしょ!あー、合点が行ったよ!あの人のこと、探しに来たの?」
「……カワ、ヤサン?」
聞きなれない人名に、僕はまごつく。
「あ、あの……。カワヤサンっていうのが、誰か、分からないんですけど。僕の探してるのは、母さん……を、ヲシテっていう名前の…」
獣人の男の人は、うはははっと勢いよく笑う。
「あーそうそう!その人その人!俺らの間ではカワヤサンって言われてんの。ついて来な。どこらへんにいるのか、だいたい検討つくから」
そう言うと彼は、のし、のしと路地を奥へと進んでいく。
僕の全身から、安堵のために力が一気に抜けていくのが分かった。
母さんが、いる。
無事で、いる。
その安心感。今までの緊張が一気に解き放たれて、僕はよっぽどへたり込みたい気持ちになった。
……でも、行かなくちゃ。
母さんをちゃんと、迎えに行こう。
母さん、ごめんなさい。
最近、お帰りなさいもきちんと言えてなくて、ごめんなさい。
今度は、ちゃんと言うから。
だから、待っててーーー。
僕はしっかりとした足取りで、獣人の男の人の後ろについて行く。獣人の彼の背中はやっぱりすごく大きくて、ガッシリと肉付きが良い。僕はこの背中に、言いようもない親近感と心強さを覚えた。この薄暗い路地で、彼は救世主で、神様だった。
「あ、あのっ……」
僕は親愛の気持ちを抑えきれず、彼に声を掛けてしまう。
彼は、ニッコリと微笑んで僕に顔を向ける。
「ん?なーに?」
「あ、あの。母さん、ふだん、どうです?僕、母さんが働いているところ、実際には、見たこと、ないから…」
「あー。カワヤサンはねえ。うん、頑張ってるよ。結構、イイよ。」
爽やかな笑顔で話す彼を見て、僕の心に誇らしい気持ちが湧いて来る。母さんを褒めてくれてる。やっぱり僕の母さんは、すごい人だ。
「そ、そういえば……」
打ち解けた気分になった僕は、さっきから抱えていた疑問を彼に聞く。
「あの、母さんのあだ名…。カワヤサンって、どういう意味なんですか?」
「…あ、そっかあ。君、知らないのかあ」
ポリポリと頭をかいてから、彼は答えた。相変わらずの、清々しい笑顔で。
「お便所、って意味だよ。ボウヤ」