第1章 5話
物語を書く魅力に取り憑かれた、あの日。
あの日を境に僕は、創作活動に夢中になっていった。
学校から帰ると、すぐに部屋の片隅を陣取る。お気に入りの麻のボロ切れにくるまりながら、筆を走らせる。寝食の間も惜しんで、俺は物語を紡ぐのに夢中になった。
「カナタ、ただいまぁ〜」
玄関から母さんの声が聞こえる。いつもなら、出迎えるところなんだけれど…。
ごめん、母さん。
僕は心の中でそう呟いて、小説の執筆を進める。ここで止めたくない。この感情を、今この時に紙に記しておきたい。
案の定、母さんはぶーたれている様子だ。
「ちょっとカナタ〜。あんたここ最近つれないじゃあ〜ん。母さんつがれた〜。身体バッキバキなのお。労いなさいよ〜う」
ごめん、母さん…!あと5分。5分だけ…!
寝坊助の常套句のような台詞を、僕は心で唱える。
楽しい。楽しい。楽しいーーー。
俺の心は、無から何かを創造してゆく素晴らしさと、その恐ろしいまでの魅力に満たされていった。
……そんなある日。
「……あ。」
僕が物語を書き始めてから数週間ほど経った頃だった。学校で筆を走らせていた所、愛用の万年筆から、インクが上手く出なくなってしまったのだ。
僕のはやる気持ちに着いていけなかったのだろう。元々ボロボロだった万年筆は、この数週間で、もはやその形状を保てないほどに劣化してしまったのだ。
「……くそっ!!いま、良い所だったのに…」
替えのペンなど、ビンボウな我が家にあるはずもない。この万年筆だって、母さんの母さんの代からのべ数十年も酷使してきたものだ。
書きたい。書きたい。書きたい。身体が焦燥感で焼き尽くされそうだ。
その時ーーー
隣の2人の男子の会話が、ふと俺の耳に入ってきた。
「なあ、聞いて!?俺、昨日の誕生日にさあ、タイプライタア買ってもらったんよ!」
「は?なにそれ?何に使えるん?」
「なんか、文字をめーっちゃ早く書けるんよ!ペンで書くのの数倍早い!こう、ボタンをぴっ、ぴって押すだけで、機械が勝手に文字を書いてくれるんさ」
……ペンの数倍、早い……
俺は生唾をゴクリと飲んだ。喉がチリチリと焼け焦げそうなくらい、興奮しているのが分かる。
(…欲しい)
僕の頭が、心が、身体の全てがそう訴えている。僕はもともと物欲が殆ど無い方で、今まで何かをこんなに強く欲した事なんて無かった。喉から手が出るほど〜なんて例えは、てんでバカバカしいと思っていた。
でも、今。
欲しくて欲しくて、たまらない。
僕は、タイプライタアが、欲しいーーー。
◇ ◇ ◇ ◇
「ね、カナタぁ。あんた最近、なんか楽しそうじゃない?」
夕食時。母さんがニヤニヤしながら問いかける。わざとらしく目を細めて、僕をジトーっと見つめている。
まだ母さんには、僕が書いている小説の話をしていない。
…なんだか恥ずかしいし、こそばゆいじゃんか。
「……べ、別に。特に何でもないよ、母さん。」
動揺を隠そうと、僕はおかずのシチュを無理やりかっこんだ。
「んーー?誤魔化し方が下手だねえ、カナタくん。だって最近、母さんとの食事の時だって上の空だしさあ。1人で布団にこもって何かやってるしぃ。まったく。…ま、寂しい反面、親としては嬉しくもあるんだけど」
そう言うと、母さんはにっこり微笑んだ。少し悲しみが混じった、でも心底幸せそうな、そんな笑顔。
いつも強気でふざけがちな母ちゃんのそんな顔を見て、僕の胸にちくり、と痛みが走る。
…【母さん】ってものは一体、いつの時点から【母さん】になるんだろう。
…いつから、こんな切なげな顔をするようになるのだろう。
見るだけで、なんだか泣きそうになってしまう。そんな顔。
ほんの少しだけ、母さんに洗いざらい話したい気持ちが芽生える。僕が、夢中になれるものを見つけたこと。母さんに聞いて欲しい。
…が、やはり気恥ずかしさが優って、僕はすぐにその芽を摘み取ってしまう。
僕の複雑な心境とは裏腹に、母さんは相変わらずその笑顔を絶やさない。
「ところでカナタ。あんた、来月誕生日でしょ〜?なんか欲しいもの無いの?プレゼント、奮発しちゃいますからね!」
母さんはふんっと鼻息を吐く。やる気満々な様子だ。
【特に欲しいものなんて無い。母さんさえ、元気でいてくれれば。】
去年の誕生日まで、僕はそう答えていた。心から。
当時の僕…まだ暖かな繭にくるまっていた僕は、この生活に何の不足も無かったから。
でも、今は違う。
【母さんさえ元気でいてくれれば】
僕はもうそんな風に、無欲に、ただ純粋に思う事はできなかった。
欲しかった。ただただ、タイプライタアが欲しかった。
どんどん世俗的になっていくようで、僕はそんな自分を恥ずかしく思った。
「……あのさあ。母さん。」
野菜だけのシチュが入った器を机に置く。僕は深呼吸して、次の言葉を続けた。
「学校を、しばらく、休ませて欲しい」
「……え?」
「母さんからのプレゼントは、大丈夫。要らないよ。その代わり、学校を休みたい。仕事がしたいんだ。…お金が、欲しくて。」
僕は拳をぎゅっと握りしめ、一言一言を絞り出すように喋る。プレゼントにタイプライタアが欲しいなんて、言えない。ペンどころか、パンにすら事欠くような我が家で、そんな発言など出来るわけがなかった。
僕は顔を伏せて、自分の拳をじっと見ている。母さんがどんな反応をするのか、予想できないことが怖かった。顔を上げられない。母さんの顔を見られない。
しばらくの沈黙の後、母さんが口を開く。
「……カナタ。教えて。」
…いつもの明るい母さんの声じゃない。
暗く、重々しい声だった。
僕は思わず顔を上げて、母さんの顔を見る。
その顔から、笑顔が消えている。今にも泣き出しそうな、怒り出しそうな表情。唇が微かに震えていた。
「…カナタ、教えて。あなた、学校で何かあったの?何で、しばらく休みたいなんて…働きたいなんて、言うの」
予期していなかった母さんの反応に、僕は焦りながら答える。
「ち、違うよ、母さん!!学校に問題があるとか、そんなじゃない!僕はただ、ちょっとその、欲しいものがあって…」
「……カナタ。聞いて」
母さんの声はブルブルと震えている。
「母さんはね。父さんと出会ってあなたを身ごもって…それで、学校を辞めちゃったの。もちろん、あなたを生んだ事に後悔なんて一切無い。私は今、幸せ。でもね…もっと勉強をしていたら、って気持ちになる事がたまにあるの。私にもっと技術なり何なりがあれば、あなたにもっと良い環境を与えられたんじゃ無いか、って」
一息で話した後、母さんは大きく息を吸って続ける。
「だから、カナタ。私はあなたに後悔して欲しく無いの。勉強は、今しかできないんだよ。もしね、もし……あなたが半獣人だからって、あなたを虐めるような子が居るのなら、私が学校に乗り込んで、断固抗議する。だってあなたは、そんなーーー」
「ちがうよ!!そんなんじゃない!!」
僕は叫んで、すぐに思った。
【やってしまった】と。
こんなに大きな声を出すつもりは無かった。ただ母さんが、辛そうに話しているのを見てられなくて。僕がいじめられていると思われていることを、否定したくて。
気まずい気持ちで母さんの顔を見る。
母さんは、僕の目をじ、と見据えていた。
「……カナタ。」
母さんは、真剣な目を僕に向ける。
…こんな目を向けられたら、僕は朝がつけなくなる。
「カナタ。学校に行かない理由を、ちゃんと教えて。」
肩で息をしながら、僕は答える。
「……欲しい、ものが、ある、んだ。だから……働きたい。」
母さんはニッコリと微笑む。優しい笑顔。いつもの母さんの笑顔だった。
「何が欲しいの?母さんに言ってごらん?」
僕の目から、涙がボロボロと溢れ出して来た。
何の涙なのか、自分でも分からない涙。
母さんに対して声を荒げてしまったショックなのか。
去年までとは明らかに変わってしまった自分に対する失望なのか。
タイプライタアを買う事ができない、我が家に対する苛立ちなのか。
……もしくは、それらの感情を優しく包んでくれる、母さんの笑顔に対してなのか。
とめどなく溢れる僕の涙を、母さんはその手で拭う。ゴツゴツした手の感触が暖かくて、僕は更に泣いてしまう。
「ほらほらカナタくん。泣かないの!さあ、母さんに言ってごらん。誕生日のプレゼント、何が欲しいの?」
母さんの柔らかな声を受けて、僕は答えるーーーーーー
……ああ。
ここだ。
ここが、僕の運命の分岐点。
この時僕が、身の程をわきまえていたら。
「新しいペンが欲しい」と母さんにきちんと伝えられていたら。
でも。
僕は自分の欲望を、真っ直ぐに母さんに伝えてしまった。
「タイプライタア、が、欲しい…」
嗚咽にまみれた微かな僕の声を、母さんは真剣に聞いていた。
そして……頷いた。
「……わかった。」
いつもの優しい、笑顔で。
「母さんに、任せなさいな」