第1章 4話
しとしとと、心地よい春の雨が地面を濡らす。そんな日だった。
教室に、見知らぬ先生が姿を現す。小柄で背の曲がった、いかにもおじいちゃん、という感じのヒトだった。
面食らった僕ら生徒の姿を他所に、その先生は少し皺枯れた声で話し始める。
「はい、皆静かに。今日は、このクラスの担任の先生が風邪でお休みになってしまいました。なので、今日だけ私がこのクラスを担当します」
そう言うと、先生は黒板に白いチョークで文字を書き出した。掲げた手が、プルプルと震えている。
「作……」
教室に、さざ波のようなざわめきが起こる。次に書かれる文字を、固唾を飲んで見守る僕ら。
「……文」
その瞬間、教室中が、ため息と不平不満の怒号に包まれた。
「さて、皆さん。今日の課題は作文です。それぞれ自分の好きな事を、好きなように書いてみて下さい」
だるい。面倒臭い。クラスのみんな、思う事は同じだ。
もちろん僕だって例外じゃない。読書感想文とかそういう類の物は性に合わない。
だってあれって、「面白かった」っていう感想を、うすーくうすーく引き伸ばすだけの文章じゃんか。
「ほら、静かに!今回の作文はいつもと違って、何を書いても良いんですから。テーマも形式も、全て自由!さあ、文句を言う前に手を動かして」
目の前の羊皮紙に目を移す。自由に、って言われても、何を書けば良いのだか皆目見当もつかなかった。
「何でも良い。最近あった嬉しかったこと、寂しかったこと、悔しかったこと…物語風に書いてみても良いのだし」
…ふうん。物語風、か。
イタズラを思いついた子供のように、僕はニンマリと微笑む。
うん、良いアイデアがある。半獣人の男の子を主人公に、物語を書いてみよう。
何の変哲も無い半獣人の少年に、ある日突然信じられないほどの力が宿る。悪の結社と戦う、カッコいいヒーロー。そんな話。
筆を進める。導入では、半獣人の少年が友達と遺跡探検へ出かける。そこで、未知の生命体に力を授けられる展開にしようか。
未知の生命体は、具体的には何だろう?そうだ、古代文明の時代からずっと行きてきたヒトって設定で……
……あれ?
ふと気がつくと、手元の羊皮紙がすでに真っ黒に埋まっていた。
……あれ、なんだろ。なんか良く、わかんないけど……
筆が進む。次の展開を書きたい気持ちが溢れてくる。手を止めたく無い。もっともっと、先を書き続けたい。
……うわ、これ、楽しい……
心臓の鼓動が高鳴る。全身の血液が、熱く滾るのを感じる。
幸福感とは、違う。もっとヒリヒリとした強烈な喜び。そしてその強すぎる高揚に、どこか恐怖さえも感じている客観的な自分。
こんな得体の知れない気持ちは、生まれて初めてだった。
「……はい!!時間ですよ。みんな。筆を置いてね」
先生の声で、初めて我に帰る。
あれ、もう1時間も経ってたのか!?
書く事に夢中で、全く気が付かなかった。
先生はぐるりと教室を周り、各生徒の筆の進み具合をチェックする。
「おや、君、全然埋まってないじゃないか。いけないねえ。今日は居残りかな。君は……ふむ、昨日起こった出来事を書いたのか。日記みたいだけれど、まあ良いでしょう。おや?君は…」
僕の真っ黒な羊皮紙を見て、先生はピタリとその足を止めた。
「おお、素晴らしい!カナタ君、君は、こんなに羊皮紙を埋めたのか!どれどれ、見せておくれな。……むむ、これは、物語調なのか…」
僕の手から羊皮紙をガバリと奪い取り、先生はその内容をスラスラと目で追った。
自分の創作物を見せると言う気恥ずかしさと同時に、形容しがたいムズムズ感が僕を襲う。
多分、僕、顔が真っ赤だったんじゃないだろうか。
「……カナタ君。君は……」
羊皮紙に一通り目を通した先生が、僕の顔をじ、っと見る。
そして、小さく。僕以外の誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
「……君ねえ。恐らく、才能あるねえ。物を書く才能。驚いたよ。12歳の男の子が、ここまで文章で表現できるなんて。
……だからこそ、惜しいなあ。君がもし…もし……」
先生の唇が、少しだけ震えている。
「……ヒトだったならーーー」
ゴーーーン ゴーーーン
彼の言葉に覆いかぶさるように、丁度チャイムが鳴った。1限目が終了した事を示すその音を聞いた生徒たちは、まるで水を得た魚のようだ。
「せんせー、もう休み時間でしょー?」
「トイレ行きたーい!もう漏れちゃう!」
餌を催促する小鳥達のような生徒の声で、先生は我に帰ったようだった。
「…おや!もうチャイムが鳴っちゃったのか。じゃあカナタ君、これ返すね。さ、皆静かにー!」
僕に羊皮紙を返して、先生は教壇へと戻って行った。
…歓喜と興奮とで、恍惚の表情を浮かべる僕を残して。
初めて自分の手で、物語を生み出せた喜び。
その物語を、人に褒めてもらえた嬉しさ。
そして何より…「創作」という、こんなにも素晴らしい体験がこの世にあるのだという気付き。
それまで黄金色だった、僕の世界。
「安心」という名の暖かな繭に包まれた僕の世界に、鮮やかな色の絵の具が一気に足されたような気がした。
赤や黄の、鮮烈な……毒々しい色の、絵の具。
この日から僕は、創作という怪しい魅力を放つ世界に、夢中になっていくのだった。